水平線と夜の闇
鹿嶋 雲丹
第1話 図書室
五寸釘も水平線も真っ直ぐだ。同じ真っ直ぐなら、水平線の方がロマンがあるだろう?
遥か彼方でオレンジ色に輝く水平線を見つめ、隊長はそう言った。
だから、私はこう言ってやったんだ。
それを言うなら、暗黒世界より夜の闇の方が、同じ暗闇でも聞こえがいいな。うん。今度からそう表現しよう。って。
アマガイ サト。
そう印字されたラベルが、縦五十四ミリ、横八十六ミリ、厚さ〇.八ミリの白いカードの上部に貼り付けられている。
そのカードを手に、女は鼻歌を歌いながら歩いていた。
瓶底眼鏡と呼ばれるほど、ぶ厚いレンズの眼鏡。その奥に控える奥二重の瞼の黒い瞳。同じく黒い髪はかなり癖が強く、それをひっつめ髪にしている。
女は身長が高くすらりとした印象で、身につけているカーキ色の隊服がよく似合っていた。
「図書室到着!」
女はお目当ての部屋の前で立ち止まり、にやりと笑った。
そして勢いよく、入り口にあるスキャナーに手にしたカードを押し当てる。
ガッ!ピッ!
モニターにOKという文字が浮かび、軽快な機械音と共に扉が開いた。
「ぬっふっふ……やはり誰もいないな……やはり図書室に来るのは閉室十五分前に限る」
女は不敵な笑みを浮かべながら、すぐ近くにある椅子にドスンと座りこんだ。
「このしんとしたとこで集中して読むのが、最高に落ち着くんだよなあ」
女はワクワクした表情で、肩に掛けたショルダーバックから一冊の本を取り出した。
本はまだ真新しく、女は本を包んでいるビニールをビリビリと破く。
「あの話の続き、どうなったかな……あのおっさんキャラ、今度こそ出番もらってるといいけど……」
女はぶつぶつと呟きながら、ぺらりと表紙をめくり、そのまま本の世界に没入する。
うぃぃん……
女はあまりに集中していた為、図書室の扉が開くその音に気がつかなかった。
「おい、お前」
「うわあ!」
女は突然かけられた男の声に叫び声をあげた。
ばっと視線を向けると、そこには爽やかなイケメンを体現した若い男が無表情で女を見ていた。
女はその顔をよく知っていた。そしてその顔の持ち主は、今もっとも会いたくない相手でもあった。
「ヒラド隊長……なんでここにいるの?」
女は不機嫌そうに、テーブルの向かいに座っている男に言った。
男は女の制服に刺繍された名をちらりと確認する。
「お前の名はアマガイというのか」
「……もしかして、あなた自分の部下の顔と名前覚えてないの? あたしゃ、あなたと同じ第三騎馬隊所属ですよ」
アマガイ、と呼ばれた女は渋々手にしていた本を閉じ、テーブルに置いた。
「……その本」
ヒラド、と呼ばれた隊長職の男は女の手の下にある本をじっと見つめた。
「……なんでそんなにジロジロ見てんだよ」
女は隊長に冷たい視線を送る。
「……その本は、青年男性向けの漫画雑誌に連載中の作品だろう? 女がそんなもの読むんだな」
「……はあ? 悪いかよ、女が読んでちゃよ」
「……アマガイ、なぜ急に言葉づかいが悪くなった?」
男は無表情のまま問う。
「なぜ、だって? 今のわけわかんねぇ理論も腹立つけど、私の至福の時間を妨害してるから、頭に来てんだよ!」
女は苛立ちの感情を隠しもせず叫んだ。
「至福の時間? その本を読むのがか?」
男は少し怪訝そうに言い、本に手を伸ばす。
「触るなよ、私の大事な本に!」
女は慌てて本を掴んで引っ込めた。
「いや、それ俺も読んだ」
しん、と一瞬空気が静まり返った。
「俺のおすすめは四十七頁目の、準主役が主役の成長を願いながら儚く散っていくシーンだ」
沈黙を破ったのは男の淡々とした口調だった。
それを聞いた途端、女はさらに苛立ちを募らせたような表情で男をギロリと睨んだ。
「……おい、テメェ……それはネタバレって言うんだ、知ってるか?」
「ん? もしかしてまだ読んでる途中なのか?」
男はかすかに眉根を寄せた。
「もしかしてもなにも、たった今読み始めたばかりなんだよ!」
「だってそれ、新刊じゃないじゃないか」
「私は最近この漫画にハマったばかりなんだよ! あぁ、もう最悪だ、帰る!」
女は叫び、本をショルダーバックに詰め込んだ。
「おい、アマガイ……お前の推しキャラは誰だ」
さっさと図書室を出ていこうとする女の背に、男は静かな声音で話しかけた。
「……エイっていう、存在感の薄いカッコイイおっさんだ」
「……なるほどな……」
振り向きもせず答えた女の台詞に、男はにやりと笑った。
「なかなか、いいセレクトだ」
「……そういう隊長の推しは誰だ?」
ぴたりと足を止め、女は問い返す。
「その巻で儚く散った、ヒノ隊長だ」
女はくるりと振り返り、ズカズカと男に近づきその胸ぐらを掴んだ。
「だから、ネタバレすんなって言っただろ!」
「……あ、そうだった……すまん」
平坦な口調で男は謝罪を口にした。
「……アマガイ、お前力あるなあ」
「黙れ、この若造が!」
「……もしかして俺が若くして隊長に昇格したことに、嫉妬してるのか?」
男は女の制服の袖についている階級を示すバッジを見やって言った。
「はっ、嫉妬だと? バカバカしい」
女はばっと男の胸ぐらを掴んだ手を離した。
「私は万年最下級で満足なんだよ! 今の任務解きやがったら承知しねぇからな!」
「任務?」
男は乱れた襟元を直しながら問う。
「シノ物流会社のセンター警備」
女は短く答えた。
「あぁ、あの倉庫か……なんだ、そこはそんなに執着するほど魅力的な現場なのか?」
「そうだよ。あの倉庫はな、かわいいおっさんとおばちゃんがわんさか働いてるパラダイスなんだ。だから、階級なんか上げてみろ、私はお前を許さんからな!」
女は上から男に冷たい視線を送った。
「……気のせいかな、俺よりお前の方が格上に見えるんだが?」
「生きてる年数だけなら、私の方がお前よりツーランクも格上だ。お前は今二十五だろ? 私は二十七歳だ。ざまあみろ」
「……アマガイ、お前下の名はなんというんだ?」
隊長の問に女は眉根を寄せた。
「サトだよ……なんでそんなこと聞くんだよ」
「ふぅん……俺の名はレンだ」
「知ってるよ、自分の隊のトップの名前くらい……あんたにとっちゃ、私は三十人いる部下の内の一人だろ。わざわざ下の名前まで覚えなくても……って、なに書いてるんだ?」
サトは怪訝な表情で、なにやらメモ用紙に走り書きしているレンを見た。
「はい、これ」
「なんだよこれ……」
渡されたメモ用紙を受け取り、サトはまじまじとそこに記された文言を見た。
「日時と場所に電話番号? なんだこれ?」
「それは俺の連絡先だ。日時と場所は落ち合う為に必要な情報だろう?」
サトはレンの言葉に戸惑いの表情を浮かべた。
「なんで私がお前と落ち合わなきゃならないんだ」
「だって、もう閉室時間だろ? ここ」
レンが言うと図書室の閉室時間を知らせる音楽が流れ始める。
「……私には、お前と話をする意志はないんだが」
サトは冷静な口調で言う。
「残念だが、俺にはお前に話したいことがあるんだ。これは上官命令だ」
レンは立ち上がり、図書室から出ていこうとする。
「……きったねぇな、上官命令だと? いったい何の話だよ……」
「偽装結婚」
部屋を出ていったレンの声が、そう言ったような気がした。
「ギソウケッ?」
はぁと大きなため息を吐き、サトは仕方なく図書室を後にしたのだった。
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