第10話 世間
「大丈夫?無理しないでね」
そう言いながら、みんなが迎え入れてくれた。この人たちに風邪をうつしたくなくてマスクの位置をきちんと直す。
郵便物の仕分けに始まり、些末な物品の支払い、来月号に掲載する広告の位置決め、記事の校正まで、仕事はいくらでもある。ちょっとでも役に立ちたいと、本気で思った。
職場に来たら気持ちがシャキッとした。もう治った気もする。まあ、誰かにうつしたら本当にダメで、そう思って人と距離を取る。
ちょっと気をつけながら普段通り仕事をしていたら、だんだん身体がラクになってきた。今朝病院へ行ったことさえ夢だったような気がしてくる。隣の人に教えてもらったことも。鞄の中の『とんぷく薬』の存在が、俺に現実を見せている。
それにしてもあの病院の不思議な空気感は、好きな感じのものだった。それだけに、あの場所を教えてくれた隣の人のことが…もっと気になり出した。
なんか…もっと仲良くなれたらいいのになぁ…。
や、でも何話していいかわかんないか。どんな仕事してるんだろう。共通の話題ってあるかな。
いろいろもやもや考えてしまう。けれども、たぶんあの人とだったら、同じ部屋で会話を、『しないでいる』ことが自然とできる気がした。
同じ部屋にいて、別々の本を読み、時々顔を上げてテレビを見る…そんなこともできる気がする。
俺と兄貴が過去にそうしてきたように。
そして彼は兄ではないから、もし友だちになれたとしても、失う気持ちになることは無いだろう。彼に対して、兄弟として感じるほどの執着心は、俺には湧かないだろうから。
もう一つ。
彼に、抱きしめてもらいたいって、思ってない。
俺が兄貴に望んでいるように、彼にそうしてもらいたいとは思わない。友だちって、そういうものじゃないと分かっているから。
兄貴になんとなく似ていて、でもやっぱり似ていない『彼』と親しくなれたら、俺の変な呪縛は解けるんじゃないだろうか。兄貴を所有し、所有されたいと思うこの気持ちは昇華されるんじゃないだろうか。
兄貴を誰にも渡したくなかった。俺だけを大事にしていて欲しかった。
でもそれは無理だ。
もう無理なんだ。
兄貴は家庭を持つんだ。
俺のじゃないんだ。
俺は目を覚まさなくちゃいけないんだ。
健全な精神を意識的に育てないといけないんだ。
フツーに友だちと遊んで、フツーに彼女作って、フツーに仕事して、誰にもばれないうちに「フツー」になってしまえばいいんだ。
きっとできる。
フツーって何だろうと思いながら。
少しまだ熱っぽいから、できる限り単純作業をやっつけて、その日は課長に言われるままに定時に帰ることにした。自分の部屋でコンビニで買ったレトルトのおかゆをすすり、早くに布団に入る。
明かりを消した薄暗い部屋でうとうとしていると、薄い壁から隣の家の気配がしてきた。
…もしかして十時?
時計を見た。やっぱり十時を少し過ぎたところだった。いつもの時間に隣の彼が帰ってきたのだ。
なんだろう、この安心感。
朦朧としているせいか、実家の自分の部屋にいる気がしてきた。
実家では隣の部屋で、兄貴の気配がよくしたものだった。「兄貴の音」を、そうやって毎日何の気なしに聞いていた。「兄貴の音」をただただ無駄に消費してきたのだ。
ああ。
やっぱ俺、熱がある。今日は兄貴のことばかり考えていた。
バカだな。
なんてバカなんだろう。
もう忘れるんだ。
そう思っても、でも実の兄だから、関係を断ち切り、すっかり消し去るってことができない。
なんでそんな男を好きになってしまったんだろう。俺、本当にバカだ。
熱があるぞ。
熱があるから変なことを考えるんだろう。
兄貴のことは諦めて、隣のあの人のことを考え続けたい。
病院を教えてくれてありがとうと、心の中で唱えよう。
そして、次に会ったら本当に礼を言おう。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
意識が遠ざかった。
静けさの中で目を覚ます。びっしょり汗をかいていた。それが気持ち悪くて起き上がる。
…熱があったんだ。そして、もう下がってるかもしれない。
とりあえず水を飲む。汗だらけのシャツを脱いで、着替えると気分が良くなった。
枕元の携帯が光る。
なんだろう、と思って携帯を見たら、原田さんからまたメールが来ていた。
『次の土曜、空いてたら晩飯どうですか?』
原田さんの爽やかな笑顔を思い出す。
原田さんは何の『利』を感じて俺に近づいてくるんだろう。
兄貴の弱みを探っているのだろうか。
いやいや、俺そんなに人を見る目ないし。勝手に悪口考えている場合じゃない。
今度それとなく兄貴に「原田さんってどんな人?」って訊こう。
「空いてます。でも今日現在熱出てます。体調戻り次第です。すみません」
メールを送った。送信してしまってから、夜の一時だってことに気付いた。年上の人に対してよろしくない内容と時間だ…と思わなくもないが、何故だか悪いことをした気がしない。原田さんの、あの軽い感じ、胡散臭い感じが、俺に気を遣わなくさせている。
ゴロンとベッドに横になる。すぐに返事が来た。
『熱?大丈夫?昨日付き合わせてごめんね。じゃあまた今度にしよう』
あらら、意外と殊勝な返事だ。じゃあまあ優しい返事をしよう。
「週末には元気になってると思います。元気ならぜひ」
何が優しいんだかわからないけど、「ぜひ」ってところに優しさを込めたつもり。
『了解です。じゃあとにかくお大事に。また週末メールします』
はーい。
心の中で返事をして、実際には返信をせず、また寝た。
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