第5話 足踏み
二日酔い。酷い頭痛。朝飯も昼飯も食わず、水ばかり飲む。
水、トイレ、水、トイレを繰り返し、身体の中の酒を外へ追いやる。
あ~。なんだか最近酒に飲まれてる。
缶三本で頭割れそうとか、俺らしくない。
午後二時頃、なんとなく出かけられるっていう体調まで戻して、シャワーを浴びた。ついでに洗濯機を回して、ベランダ…一階でもベランダって言うのか分からないけれど、そこでそれらを干していたら、隣で人の気配がした。
俺と同じく、洗濯を干しているようだった。白いつい立てがしてあってあんまり見えないけど、青いタコ足がチラチラ揺れているのが分かる。
昨日はすいませんねぇ…「昨日の俺」が悪いんですよ。ほんと、あいつが迷惑かけましたね。
心の中でだけ謝った。
もう偶然っぽく会うの、やめようとか思ってます。すいません。
あと…怒らないで、無視しないで、ちゃんと返事してくれて…めちゃ嬉しかった。ありがとうございます。嬉しかったし、だから今日頑張って兄貴に会いに行けます。
ありがとう。
か~っと伸びを一つ。あああ、まだちょっと頭痛い。
兄貴の彼女とメシ食うのって、どんな服装がいいのかな。
スーツ?いや白シャツチノパン程度?…それでいいや。ほどよくたるんだベージュのチノを履いて、ボタンダウンのシャツを着る。鏡の前でボサッと立つ。この姿にプラスして、いつも持ち歩いているクリーム色のナイロンの斜め掛け鞄を肩にかけると…なんか全体的に膨張色?太って見える?っていうか、昨日の酒で全身むくんでる。
確実に顔が丸い。
いいや、別に。結局のところ他人のヨメさんに会うだけだし、カッコつける必要はないんだ。
…クリーム色のナイロン鞄はやめて、紺の帆布の鞄にしよう。
うん、ちょっとマシ。
夕方部屋を出て駅へ歩いた。先に待ち合わせの店の近くの本屋へ行って、立ち読みをしようと思った。一人暮らしを始めてからというもの、職場へは自転車で行って、広告取りも自転車やバイクが多いから、電車に乗るのは一か月ぶりだった。
九月下旬の、日曜の夕方。都会へ向かう普通列車は座席がざっくり埋まる程度。座れないこともなかったが、俺は昔から好きな「扉の角」にもたれて立った。
動き出した電車の窓から見える夕焼け。離れた場所の、開いた窓から入ってくるぬるい風。今から兄貴に会いに行く俺の心はもやもやしている。二日酔いの覚めやらぬ身体は、本当は水分と睡眠を欲している。
ふと車内を見渡す。いろんな人が集まっている。眠っているおじさん、膝になにやら大きな鞄を抱えたおばさん、それに携帯画面をじっと見つめている女の子。…高校生ぐらいかな。もしかしたら中学生かも知れない。制服を着ていないし年齢は分からない。
いつの間にか、十代の子の年が分からなくなってきている。職場は「おとな」ばっかりだし、仕事の相手はもっと年配の、俺のことなんかひよっこだとしか思っていない人たちばかりだ。俺は多分、結婚もしてなくて、なんの責任もしょってなくて、お気楽に暮らしている若造と思われている。
それでも、そんな俺よりも、目の前の女学生はもっと気楽に見える。
いや…どうだろう。
彼女には彼女なりの苦悩があるのだろうか。
彼女が携帯を操りだした。ゲームをしているのか、メールを打っているのか、その親指の動きは俊敏で、目で追えないほどの勢いだ。あの域に到達するまでどんなにかかったか。
そんなくだらない事を考えている時点で、やっぱりこの世で一番気楽なのは俺か。
…ああ、兄貴に会いたくない。
正確には、兄貴と、その彼女が並んでいるのを見たくない。
扉が開く。俺は立ったまま。さっきの女学生さんが鋭い早さで俺の前をかけぬけていく。携帯を握りしめたまま。
彼氏にでもメールしてたのかい?
今、幸せかい?俺は幸せではありません。
せめて、名も知らぬ君に幸あれ。
…勝手に祈ってしまってゴメン。
やんわりと動き始める電車。やがてホームを歩く彼女の姿は見えなくなった。
彼女とは電車に乗り合わせただけ。でも、兄貴は俺の兄貴だから人生から消すことができない。どんなに距離を置こうとしても。
いや。
逆に考えてみたらどうだろう。どんなことが起きても、あの人と俺とは血が繋がっている、縁が切れることはない。誰かが俺と兄貴を引き離そうとしても、俺たちが家族だってことに変わりはないんだ。それは誰にも変えることができない。兄貴が結婚したって、それは変わらないんだ。
兄弟。
俺だけの兄貴。
会いたい。
本当は死ぬほど会いたいのに。
待ち合わせよりも一時間早く最寄りの駅に着き、駅からすぐの大型書店に入った。もうこの街は俺の仕事の管轄外で「よってけ」も置いていない。
社長は何を考えているんだろう。CMを打つなんて。…まあ、狭い地域に放送されるだけだろうけど。
CM、自分たちでなんてできるのかな。経費どれくらい出るんだろう…。
仕事のことを、もやっと考えながら雑誌を立ち読みする。でも文具の特集ページなんかがあると仕事のことはパッと忘れて、じっくり見てしまう。
好きなボールペン、好きな電卓、好きな消しゴム、好きなノート…。
ペンケースにすっきり収まるハサミ。今のはちょっと切れ味が…なんて、無駄遣いの方法を考えながら雑誌をレジへ持っていく。家に帰ってゆっくり読もう。そう考えていれば、食事の席の酒の量も調節できるというものだ。昨日の失態を思い出すと、今日こそ決して深酒をしてはならないのだ、と強い気持が湧きあがる。深酒どころか、最近酒に弱いのだから、浅い酒すら危険だ。
兄貴に変なこと言っちゃ駄目だし、お嫁さんにも言っちゃ駄目だし、兄貴の友達の人にも失礼があっては駄目なのだ。今日は、大人しくしてないといけない日なのだ。
アウェイなのだ。
鞄に、買った雑誌を入れた。時計を見る。まだ時間がある。俺は遅れて登場するぐらいが良いだろう。
本屋の隣、文具店に足を踏み入れた。
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