第4話 大胆

 めんどくさい。

 めんどくさい、めんどくさい。

 めんどくさい、めんどくさい、めんどくさい。


 人と会う約束をしてしまってから、なんとかして断れば良かったと後悔することがある。

 今回は全くもって、それ。

 それの典型。

 兄貴と、兄貴の同僚と、兄貴のもうすぐお嫁さんになる人と、

 最悪だ最悪だ最悪だ。「嫁」とメシを食うなんて最悪だ。

 断れなかった自分を呪う。

 その上、俺にはどうせ断りきれない例のCMの仕事が控えている。どうして俺は、こう何もかも断れないんだ。


 最悪だ、最悪だ、最悪だ。


 何もかも断りきれない。なんで断れないんだ。なんでだ。

「あの日の俺なんか大嫌いだ」と呟いた。そうやって言葉にすることで、「あの日」や「過去」の、「駄目な俺」を切り捨てて前にいける気がするから、時々こんなふうに言ってみる。

 そうだ。

 「過去の俺」は断るのが苦手な超絶馬鹿な男だけど、「未来の俺」は、それらをちゃんとこなそうとしている立派な男だ。明日、兄貴たちに会う。

 …俺は、立派な奴なんだ。


 夜九時四十五分。部屋を出る。コンビニに入ってビールを買う。今日は三本買った。店を出るなりビニール袋から一本取り出してプルトップを引き、一気に半分くらい飲んだ。

 自己嫌悪を酔いで掻き消し、「立派な自分」だけを讃えてやりたいのだ。

 それと、あともうひとつ。

 ……。 

「十時の隣人」の顔が見たかった。

 彼はもうすぐ帰ってくる。たぶん。十時くらいに自分のアパートに帰ったら、偶然を装って彼に会うことができる。酔った勢いで挨拶するのもアリだ。今までは小さく頭を下げるだけだったけど、今日は声に出して『こんばんは』って言おう。うん、「立派な俺」にならできる。

 それから、彼にあいさつできたら、その余韻に浸りながら、部屋で残る二本のビールを飲み、ぐだぐだの空気が漂う、あの狭い俺だけの城で眠ろう。

 ははは。

 くだらない計画を脳裏に描き、右手にビールの入ったコンビニ袋を携え、俺はふらふら歩いた。アパートが見えてきて、それと…あの人が歩いてくるのも見えた。

 ほらみろ、計画通りじゃないか。

「こんばんは~」

 おっと。

 自分でも、こんなに離れたところから大きく手を振るとは思わなかった。

 やりすぎ。

 でも、酔っぱらった俺はやってのけた。彼に大きく手を振った。

 あまり離れた場所から陽気に挨拶をしたので、彼はギョッとした様子で辺りを見回した。

 やがて、他に人がいないのを認めて俺の方を見た

 なんか、そういう仕草が似てるんですよ。ね、あの人に。

 それが罪ってんですよ。

 ごめんよ、勝手に似てると思って罪を着せちゃって。

 慕っちゃって。

 非常に勝手で。ごめんごめん。

 びっくりしている顔が好き。

 俺が、びっくりさせたことが好き。

 目が合ったのをいいことに、俺はもう一度叫んだ。

「こんばんは~!」

 彼が、ほんの少し頭を下げた。俺はぐいぐい進んで傍まで行って、酔った頭をぐたりと下げた。

「渋いお隣さん、こんばんは、です」

 酔ってるなあ、俺。彼が怪訝な顔をしているよ。

「…渋いお隣さんって、俺?」

 首を傾げて確認してきた。

「はい」

 元気よく答える酔っ払いの俺。

「…こんばんは」

 か細い声で返事をする彼。

 ビックリしてるじゃないか。

 いい気分だ。

 たったビール一本で、いつも以上に酔った俺の頭の中で、彼と兄貴とが同じ何かのように見えてきた。突然相談も無しに家を出た兄貴。連絡も無しにふらっと実家に帰ってくる兄貴。昇進した頃から戻ってこなくなった兄貴。突然「婚約者」を連れてきた兄貴。

 …いつも俺をビックリさせる兄貴。たまにはこっちがビックリさせてやりたいんだ。

「いっつもこの時間ですか。お仕事お疲れ様です」

 俺が言ったら、彼はちょっと笑った。

「君はいっつも酔ってるね」

 そうかな。

 そんなことない。

 でも、そっか、彼に遭遇する時って、だいたい酔ってるか。じゃあ、いっつも酔ってる、で合ってるか。そうだそうだ。俺、酔ってる。だってさ。

「酔わないといけないんです」

 俺は、彼にハッキリとそう言った。そうさ、酔わなきゃ会えないや。あなたに会うには酔っていなければ。そうでしょう。違いますか?そんな気持ちを込めて。そうしたら、彼は小さくうなづいた。

「まあ、そういうこともあるね」

 肯定されちゃったね。

「ありがとうございます!」

 俺はそう言って敬礼し、そしてポケットから鍵を出した。

「おやすみなさい!」

 ちゃんとご挨拶をして、自分の部屋の鍵を開けた。彼も、いつものあの愛しいしぐさで鍵をとりだして、俺におやすみ、と言ってくれた。俺はとても嬉しくて、にやにやしてきた。

「へへへ」

 部屋に入った。寝室のベッドに座って、自分でも恐ろしいことをしたなあと笑いながら、恥ずかしい全てを何もかも掻き消すために残り二本のビールを飲み干した。



 翌朝の俺は、酷い二日酔いになっていた。そして最悪なことに前の晩のことを何もかも覚えていた。

 こんな日曜日の朝ってあるか、あるもんか。

「っ…」

 二日酔いなんて久しぶりだった。たった三缶でこんな二日酔いになるとは。今まで、飲みすぎた朝はどうしてただろう。どうやって体調を元に戻してたっけ。

 クラクラする頭を抱えて流しへ向かう。喉が渇いて声も出ないほどだった。コップに水をジャーっと入れて、喉に流し込んだ。

「ふ~っ」

 一息つく。頭痛薬あったかな。

 俺、夕方には出かけなくちゃならない。大事な用だ。

 すごく良い気分で眠ったんだ。隣の彼が優しい感じで挨拶を返してくれたから、嬉しくて、ふわふわした良い夢を見たような気持ちになって。

 もちろん、今は「なんてことをしてくれてんだ」と昨日の俺を責めているのだが。

 あ~、もうお隣さんに夜の十時に出くわすの、やめなくちゃ。だいぶヤバイ奴だと思われているはずだ。変なストーカーみたいなこと、やめよう。


 今日は兄貴に会って、義理のお姉さんになる人のことも良く知って、ついでに兄貴の同僚に二人のこととか、家を出て以来知らなかった兄貴の素顔ってやつを聞かせてもらって、それで…うん、あんまり酒を飲まないようにしよう。

 三人と別れた後一本だけ俺にビールを許してやろう。

 そしておそらく一人で部屋で泣くことも、許してやろう。

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