第21話 傷つきたくない
コンビニの駐車場の、車止めの縁石に座って二人、月を眺めながら缶ビールを飲んでいる。
俺と、栗栖さん。
何か月か前からお隣同士ってことで知り合いで、ほんの数日前にお互いの名前が分かって、名前が分かったその日に酔った勢いでキスをして…そして今、並んで月を見ているのだ。
何も言わず。
ちょっと緊張したその空気も、しかし次第に慣れてきた。
酔い始めているからかもしれない。
無言のままなのに緊張は薄れて、栗栖さんと二人。
兄貴ともこういう時間がよくあった気がする。誤解が元で親に怒られた夜とか、本気の模試の判定がDだった日とか、初めての彼女と初めての大ケンカをして不貞腐れていた時とか。何も聞かずに横に座っててくれた。
何も言わずに。
何か…言ってくれるのかなって、励ましてくれるのかなって期待するのに、兄貴は何も言わない。
そのうち焦れた俺が話しかけたり、逃げ出したりする。
兄貴は何を考えていたんだろう。
何も考えていなかったのか。
何も考えていなかったのかも。
それでも良かった。側にいてくれるだけで。
俺、バカだなあ…。
大好きだった。兄貴のこと。
今も…好きを拗らせているけど。
思わずふふふと笑ったら、栗栖さんが「どうした?」と訊いてきた。
「思い出し笑い」
「思い出し笑いはスケベって言うけど」
「…ええ、まあ」
栗栖さんが立ち上がって、飲み終わった缶を片手でクシャッと潰してゴミ箱に入れた。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ」
俺も同じように立ち上がって缶を捨てた。
「もう…帰る?」
栗栖さんが俺に尋ねる。
どうしようかな。
ぼんやり考えていたら、栗栖さんが言った。
「こないだ、ごめんね」
『ごめん』って、どういう意味の『ごめん』だろうって、回らない頭を必死で回転させてみる。
こないだ、ごめんね…か。
きっと、そういう意味だよな。
俺は首を横に振った。
「謝ったりは、ナシで」
「でも」
「酔ってよく覚えてないけど、多分俺から仕掛けた。酔った勢いでああいうこと、俺は初めてだけど、世間ではよくある事でしょ。深刻になる話題でもない。だから、謝らないでください」
「広彦くんって」
「男の人が好きとか、そういうんじゃないです。今まで、男性と付き合ったことない」
「…そう」
二人で、なんとなくアパートに向かって歩き始めた。
これが最後かな。
「でもね、実は俺、栗栖さんのこと気になってた。家の前で合うとちょっと嬉しくて」
「……」
栗栖さんから反応は無い。
言うんじゃなかったかな。
でもさ、これで会話も最後かも知れないから言ってもいいかな。
ねえ、栗栖さん。さっきの『ごめん』は、多分『付き合う気も無いのにキスしてごめん』の『ごめん』ですよね。
聞きたい。
でも、勇気が無くて隣にいる彼の顔を見ることすらできない。
聞きたいことは他にもいっぱいあるけど、今は正直、傷つきたくない。
すでに傷ついてはいるけれど、その傷を広げてじっくり観察するほどのキャパが無い。
無言で歩いた。
すぐにアパートが見えてくる。
並んで歩くの、もう終わりだな…って少し寂しく考えていたら、栗栖さんが口を開いた。
「あの…ごめん、自分でも全然考えがまとまってないんだけど…」
「…?」
「何って言おう。何も決めてないんだけど」
そして突然、俺の手を握った。
え?
ギョッとして足が止まる。あくまで「ギョッ」だ。何するんですかレベルの「ギョッ」だ。
栗栖さんは俯いたまま俺の左手を自分の右手で掴んでギュッと握っている。
「あの…」
「ごめんって言わないことになってるけど、ごめん、考えがまとまってなくて。俺の気持ちだって、何もなかったわけじゃ無いって言わないと今日で全部終わってしまいそうで、怖いから、だから」
一生懸命、言ってる。
手が少し震えていた。
「俺も家の前で会うの楽しかったよ。どんな人だろうって思ってた。だから、広彦くんと、これで終わりってのが怖い」
「それは、どういう…」
「でも、ごめん。何か始まるのも、怖い」
ギューッと握った手が汗ばむ。
そっと離れていく。
立ち尽くす俺。そのまま顔も合わさずに歩き出す彼。
「……」
アパートの鍵を出して部屋を開けている。
ちょっともたもたしている。
あの人を好きだろうか。
俺は、あの人を。
分からない。
でも今、走って追いかけるほど好きかと言われると、それは、無い。
俺も、ごめん。
そこまでの気持ちが湧き上がってこない。
兄貴の代わりにしたくない。もっと栗栖さん本人を知るべきだと思う。
場合によっては、もっと大切な人になるかも知れない。だから。
とにかく今は、あの人は全くの赤の他人で、兄貴と一緒にしてはいけない。
…って気がする。
まだ熟してない。
兄貴のことは熟しすぎて腐ってきた。
あの人にどれだけ時間をかけたら、同じくらい愛せるんだろう。
それとも、そんな日は来ないのか。
追っかけた方がいい?
追いかけた方が良いのかな。
俺はまだ心を決めかねている。
あの日二人で飲みに行くのではなかった。
少なくとも部屋に入るべきじゃなかった。
何も考えずに酔ってキスをするべきじゃなかった。
もっと友だちとして始まればよかったのに。
栗栖さんの部屋のドアが開いて、彼を吸い込んでいった。
顔をあげる。
お月様は綺麗で、何のトラブルにも巻き込まれていないように見える。
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