第20話 月

 神様仏様そして兄貴、いや兄貴を想う俺の心よ、許してください。


 俺は栗栖さんとキスをしてしまったようです。

 正気じゃなかったんです。


 経緯はあんまり覚えていません。気がついたらそうなっていたんです。意図はありません。本当です。


 おおお、お許しを…。

 お許しを。




 自分の部屋で目が覚める。




 昨日兄貴の結婚式だった。

 結婚式に、なんとずっと気になっていた隣人が出席していた。

 彼は栗栖さんという名前だった。

 名前を、初めて知った。

 栗栖さんはボロアパートに住んでいることを周囲に隠しながら結構高そうな車に乗っている変な人だった。


 結婚式の後、一緒に飲んだ。

 そのあと気づいたら、栗栖さんの部屋でキスしていた。

 唇が離れた時の俺は放心状態だった。

「…なんで」

 そう呟いたら、じっと俺を見つめていた栗栖さんは下を向いてしまった。

 俯いたまま、『今日はもう帰る?』と言って、俺の背にそっと手を添えた。

「…はい」

 素直に帰る俺。

 なにしろ部屋は隣。

 帰って良かったんだよな。

 あれ以上あそこにいたらダメだよな。

 

 何もかも、ぐちゃぐちゃだ。


 今、俺の中のいろんなことが崩壊している。自分では、兄貴が好きっていうだけの、ちょっとした変態だと思って自分を納得させていたのに、変態でもなんでもなく、普通の男性好きなんじゃないかっていう疑惑が浮上したのだ。


 もう一度自分に問う。

 …女の子にドキドキしない?

 いや、する…と思う。


 兄貴の結婚で気持ち混乱していたから、異性との交流がなかったけど、多分…女の人が好きなはず。

 いや、実は男性も女性も大丈夫なのか。





 週明け、原田さんから飲みの誘いメールが来ていたけど、ちょっと忙しいんで…と断りを入れた。

 だって、あの人にはついなんでも話してしまいそうになるから。

 状況把握が自分でもできていない今、原田さんにうっかり相談するわけにはいかない。

 そもそも原田さんってば『栗栖さんは危険な男だ』と俺に言ってくれていたのに、俺ったらその日のうちにそんな彼の車に乗って、あんなことまでしてしまったので、…もうとにかく原田さんに知られたくない。

  

 でもなぁ。

 今、一番話を聞いてもらいたいのも、実は原田さんなんだよな。

 原田さん、会話は冷静だし、「こうしたらいいんじゃない」みたいなアドバイスが、なんか、良い。


 ちょうど良い。


 …でもまあ今回は無理だな。


 でも。


 



 水曜日の夜十一時。俺はコンビニへ向かった。いつもより少し高い缶ビールを買い、店を出るなりプルトップを引く。


 誰もいないコンビニの駐車場。

 車止めの縁石に腰掛ける。 

 一口飲んだら、顎を上げた先にお月様が見えた。

 俺、これからどうなるんだろう。

 仕事もうまくいってないし、男女関係はないし、兄貴は結婚するし、付き合ってもない人とキスしちゃったし、こんな時間にこんなところで缶ビール飲んでるし。


 クズかな。

 はあ~。

 地面を見たら握りつぶされた煙草の空箱。くしゃくしゃで汚らしくて、拾ってやる気にもならない。


「どうしようかなぁ」


 これからの人生、どうなるんだろう。そんな気持ちで頭がいっぱいになる。酔ってフワフワしてくるし…。最近睡眠時間が短いから、ちょっと飲んだだけで酔いが回ってしんどくなってくる。


 ほら、栗栖さんの幻覚も見えるよ。

 こっちに向かって歩いてくる。

 あれは…兄貴の幻覚?


 …抱きしめられたい。


 そう思った瞬間だった。


 俺は、あの日の事を思い出した。


 あの日…酔ってあの人に抱きかかえられて、あの人の部屋に入って、ソファに座らせてもらうときに二人でバランスを崩して…転びそうになった。


 そうだ、栗栖さんが、転びそうになった俺をギュッと抱きしめてくれたんだ。

 兄貴の結婚で落ち込んでいたからか、酔いすぎていたからか、すごく嬉しかった。

 長い間、兄貴にそうして欲しいと願っていた。とにかく嬉しくて、ぎゅっとしがみついて、抱きしめ返して、そして栗栖さんを見上げた。


 ほんの少しの時間か、すごく長い間か、よく分からないけど見つめ合った。

 何も話さなかったと思う。

 唇が降りてきた。



 ……。



 ああ、いきなりキスをしたわけでは無かった。




「こんばんは」

 それは兄貴の幻覚ではなく、栗栖さんだった。

 少し戸惑った表情で俺を見下ろしている。

 そうか、あのキスは、実質的には俺が誘ったんだ。

 そして、おそらくそれは栗栖さんの本意ではなかったんだろう。だからこそ、あの妙な空気と、俺の『なんで?』に対する『今日はもう帰る?』だったのだ。


「こんばんは」


 見上げる。軽く頭を下げる。どうしようも引き返せない。事実は事実としてあって、二人とも忘れていない。

 しかし、何事もなかったかのように挨拶をする。俺は、大人になってしまったんだな。

 もう引き返せないのだろう。


「ここで飲んでるの?」

「ええまあ…。お月様キレイだったんで」

「そっか」

 栗栖さんが月をチラッと見る。

「…綺麗だね」


 俺相手に、会話すること、もう何にもないよね。

 でも、彼はその場から離れない。

「…栗栖さんは?用事?」

「まあ…大した用はないけど…散歩…みたいなものかな」

 そう返事をすると、俺の横に座った。

 なんで?


 栗栖さんの行動が予想外だったけど、仕方がないから黙ってビニール袋をゴソゴソやって、ビールを一本渡した。


「ありがとう」


 彼は、申し訳なさそうにそれを受け取った。


 

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