第14話 青

 誰の声かすぐに分かるよ、何年も独り占めしていたと勘違いしていたその声だ。

 振り返るの、すごく嫌だ。彼女の気配がするから。


 だから、俺はほんの一瞬ためらって、一度深呼吸をしてから…ゆっくりと振り返った。


 兄貴と…彼女…。






 兄貴はかなりびっくりしていた。『どうしてお前らが一緒にいるんだ』ってこっちに向かって言って、それが酷く咎めるような口調だった。

 その空気に影響された。『兄貴に隠れて悪いことをしていた』気がして、胸が詰まる。

 …落ち着いて考えれば何にも悪いことはしていないのに。


 救いは原田さんだった。


 イライラしている兄貴とオロオロする俺の間で至極平然と、

「ん?貴彦にも声かけたら良かったね」

と言って、ニッコリ笑った。兄貴のイライラを完全に無視した、のんびりとした口調だった。

「いや、そういうことじゃなくて」

 言い返そうとした兄貴に、原田さんは被せて返事をした。

「ほら、お前も仕事詰まってる上に、結婚式の準備とかでアフターも忙しそうじゃん。そっとしとこうって思って、誘わなかったんだけど」


 そう言われて、兄貴も自分の状況を思い出したみたいだった。やっと表情が気まずく緩んだ。

「…ごめん」

 兄貴の謝罪は俺にか、原田さんにか、分からなかった。

「一緒に飲む?」

 原田さんは兄貴の謝罪を軽くあしらって、放ったらかし状態になっていた『彼女』に向けてグラスを傾け、誘った。

「いや、いろいろ相談することあるから」

 兄貴が代わりに答えた。


 

 席が離れて、俺はホッとして、飲んだ。

 本当にすごく飲んだ。

 前回飲み潰れて原田さんに迷惑をかけたから、今回はそうしたくなかったけど、また潰れた。

 というより、前より速いスピードで意識は飛んでいった。


 兄貴が好きだという気持ちと、あの気まずい状況…。委縮した自分の情けなさ。

 どうして俺と貴彦は兄弟として生まれてきてしまった?

 …どうして、あなたは彼女を連れてるんですか?


 なんで結婚すんの。


 新しい家族が必要なの?


 なんで今ここで出くわしたんでしょう。


 二人は、俺たちとは別の席に座って楽しそうにしていた。それが目に入る状況が辛い。

 原田さんが次、行こうかって、言った。

 別の店で飲みなおした。

 その間も、その後も、あまり記憶は無い。




 目が覚めたら、見知らぬ部屋にいた。なんだかオシャレな部屋。俺のアパートの部屋の倍くらいある広い部屋に大きいベッド、高い天井。片付いた机。モノトーンでまとめているのに、何故かカーテンだけが青い。

 それがすごく綺麗な青で、俺は目が覚めてしばらくそのカーテンをじっと見ていた。


 原田さんち…かな。だったら超納得。こういう生活してそう。生活臭ゼロの部屋。


『目標がないし、毎日楽しくやってくしかないね』


 そう言った瞬間の、虚ろな瞳を思い出した。エセ爽やかな軽い人だという印象は未だに抜けないけど、そんな原田さんにも苦労はあるのだろう。


 二日酔いの頭痛を覚悟してそろそろと身体を起こしたが、たいして酷くなかった。残らない酒を飲まされていたんだと知る。服装は昨日のままで、枕元にきちんと丸められたネクタイとベルトが置いてある。


 部屋から出た。


 廊下。左手に玄関。右手に進む。扉をノックしてみる。


「はい、どうぞ」


 原田さんの声。


「おはようございます」


 そう言いながら部屋に入った。広くて明るい部屋のダイニングテーブルみたいなところで、原田さんが小ぶりのノートPCを広げて何か作業をしているところだった。


「おはよう」

 原田さんが目を細めた。

「ごめんね、ちょっと急ぎの仕事があって。あとちょっとで終わるけど、そしたら何か食べに行く?」

「え、あ、あの」

 すぐ帰ろうと思っていたので、原田さんの提案に戸惑ってしまった。

「今日仕事休みだよね。用事あるんだったら…もう、帰る?」


 原田さんのいつもの軽い様子…の中にほんの一瞬、不安そうな表情がよぎった。それで…帰ると言い出せなかった。


「いえ…あの、用事はもちろん無いけど…急ぎの仕事があるのにお邪魔して、すみません」


 彼に対しては普段あまり気を遣わないというのに、今日は心底邪魔して悪いと思った。

「ううん、さっき外注先から連絡あって、既にあるデータをちょっと加工して送るだけだから」

「じゃあ…待ってます」


 待ってます、と返事した時、原田さんからほんの少し緊張が消えて、穏やかな表情になった。

「暇つぶしに洗面室でも探して。シャワー浴びといでよ。着れそうな服、出しとくし、なんでも使ってくれていいから」

「いや、そこまで迷惑は」

「良いの良いの、ね」

 原田さんがニッと笑った。

 仕方ない。

 面白そうだからこの豪邸の探索しよう。



 本当に生活感のない空間をさまよい、洗面室に辿り着いた。とりあえず顔を洗ってうがいをする。はねてる髪を手で押さえた。

 シャワー、借りよう。



 なんか昨日の夜から見知らぬ原田さんが噴出している。


 受付の女の子と遊び、同僚の謎の怒りに動じず軽くあしらい、放ったらかしになってるその彼女へのフォローも忘れず、勢いよく飲みだした俺に後の残らない酒を飲ませ、生活感のない広いマンションに住み、土曜の朝から仕事する。目標はなく、ただ毎日楽しく生きていこうと思ってる。


 そして多分…実は、寂しいんだ。

 本当にそれは…さっき初めて気が付いた。

 俺、気を遣わなくていい人って認識でかなり甘えてたけど、原田さんは意外と「大きい人」かも知れない。



 バスルームを借りてざっとシャワーを浴びた。出ると、いつの間にやら白いシャツとチノパンが置いてあった。遠慮なくお借りすることにした。こちらの方が背が低いので、色々長くて余る。


 リビングに戻ったら、あの部屋のカーテンと似た色の薄手のセーターを持って、原田さんが待っていた。

「これ、着る?」

 もうここまで来たら何でも来いだと思う。

「…じゃあ」

 受け取った。



「似合うね」

 シャツの上から着た。

「…カーテンの色に似てますね」

 綺麗な色だ。

「うん、そういう色好きなんだけど、俺には似合わないの」

 …確かにそうかも。

「カーテン、すごい綺麗で朝から見惚れてた」

「ほんと?」


 喋りながら、2人で外へ出た。

「オーダーで20万近くしたんだけど、広彦くんを見惚れさせたなら元は取れたね」

「え?」

「カーテン」


 …カーテンに20万って!


 やっぱ気を遣わなくていいや、この人。

 変だもん。



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