第8話 うさぎの略奪
家に帰りついたのは夜の十一時くらいだった。
鞄をゴソゴソ探って鍵を見つける。
「鍵!」
と呟いた。呟いた自分に気付いて、酔ってる事を知る。
寂しい。涙出そう。
兄貴…。
鍵穴に、鍵が入らないや。結構…かなり酔ってる、これは。
「こんばんは」
後ろから、誰かが俺に挨拶をする。振り返ったら、隣のあの人が立っていた。
「鍵、ある?」
俺のさっきの「鍵!」って呟きを聞かれたらしい。だとしたら、呟いたつもりで相当でかい声が出ているのかも知れない。
「…あ…はい、あります」
俺は鍵を見せた。
彼がふんわりと笑った。その笑顔は、兄貴とは似ていなかった。でも…なんかだかキュンとした。酔っているからかな。キュンとしてしまった。
俺は、目をぱちぱちさせて隣人をじっと見つめた。でも彼はその視線に気付かず、ポケットから鍵を取り出して自室へ入ってしまった。
…素敵だなぁ…。なんか。
カッコいいなあと思いながら自分も部屋に戻った。
リビングの隅に積み上げた雑誌の中から、先月号の「よってけ」を引っ張り出し、シャインの広告ページを開いた。
『髪質、顔の形など診断してあなたに似合わせカット。オンはすっきりと、オフはオリジナル感の決まるヘアスタイルに』
そんな一文の下に、学生さんらしき人、スーツ姿の人、ちょっと年配の人、綺麗な髪の3人の笑顔の女性の写真を並べ、さらにその下に料金表を掲載した。
狭いスペースだから、それが精一杯。俺が文章とか枠を作って、女の人の写真は向こうが用意した。意外と反響が多かったようで、掲載日から1週間ほどは電話が通常の倍ほどかかってきて大変だったと店長の三木さんが言っていた。お客さんも増えたそうで、すごく喜んでもらった。
ついでに今、俺もシャインで切ってもらってる。もちろん通常のお客としてお金払って。
最初に広告取りに行ったときに、結構伸びてたんでヘアカットしてもらうことになって、その間、三木さんのヘアカットに対する思いをいろいろ聞けたので、それを元に広告原案を作ったのだった。
こんな小さな広告に、兄貴が気付いてくれてたなんて…ちょっと嬉しい。
へへへ。
しばらくそれを眺めて、それから今日の兄貴と美雪さんの睦まじい様子を思い出してグッと胸を苦しくさせて、最後は隣の彼の笑顔を思い出して少し良い気分になった。
日が変わってからテレビをつけて、普段あまり見ない深夜番組を眺め、冷蔵庫のビールを一本開けた。
そういや、俺、また酔ってた。隣の人に会ったとき。
君はいっつも酔ってるねって、前に言ってたっけ。また酔ってるなって思われたかな。酔っ払いはキライかな。もう少し仲良くなりたいな。
さっきは、向こうから声をかけてくれた。
へへへ。
進展した。
違うか。
酔っていたせいで、『そんなことより女の子と進展しろ』っていう平常時によく聞こえる俺の心の声は聞こえなかった。
テレビから、ニュースのアナウンサーが時間を告げる。まだ一時。もう一時。リモコンでチャンネルをカチャカチャ移動した。
不思議な画面が出てきて、ん?とザッピングの手を止める。外国人の男の子が2人、礼服を着てヨーロッパ風の森の中の教会で遊んでいた。
そこへ、不思議の国のアリスに出てくるウサギみたいな、こっちも礼服を着た、やけにリアルで大きなウサギがやってきた。
なんだ、この画像。
男の子のうちの1人がウサギに気付いて追いかける。
ウサギは逃げる。
男の子は追いかける。
走っている間に、革靴は子供らしい運動靴に変わり、礼服は動きやすいポロシャツと半ズボンに変わった。
そこそこ有名な、子供服のメーカー名が小さく映って、なんだCMか、と気が付いた。
男の子が、とうとうウサギを掴まえた。しがみついて野原をゴロゴロ転がっていると、ウサギはかわいらしい金髪の女の子に変わった。女の子も、ポロシャツみたいなワンピースを着ている。2人で笑い合って戯れて。
…何故だろう。
その姿が兄貴と美雪さんの姿とオーバーラップした。
俺は胸を押さえた。
30秒も無いCMだった。
でも、今の俺を打ちのめすのには十分な時間だった。
最初に男の子と遊んでいた、もう一人の男の子はどうなったんだろう。
あれは、俺だ。
兄貴を、余所から来たウサギに奪われた。
もう兄貴の物語に出てきやしない。
朝、リビングのソファで目が覚めた。目覚まし代わりの携帯が、テーブルの上でブルブル震えている。テレビは朝のニュースに変わっていた。
変な場所で寝たせいで、身体の節々が痛い…と思いながら起き上がる。めまいがした。
あ…。熱、あるかも。
この関節痛は、寝た場所のせいじゃなくて、熱だ。たぶん。
体温計、どこだっけ…。ま、いいか。測らなくても。
フラフラしながら立ち上がる。痛い。身体が痛い。薬…風邪薬でいいか…。
効能に、解熱鎮痛と書いてある風邪薬を飲んで、しばらくソファに倒れこむ。朝のニュースはうるさくて、そっとリモコンで電源を切る。
仕事…出る時間までに、ちょっと熱が治まるといいな…。
でも、自転車に乗る気が今は全然しない。無理かな。休むべきか…いや、酷く人恋しい。一人でいたくない。
一人でいたくないから仕事へ行く、なんて間違っているけど、でも熱なんかで仕事を休むのも嫌だし、とにかく行かなくちゃ。
テーブルの上の携帯が振動する。手を伸ばす。
原田さんからのメール。
『おはよう、昨日はありがとう、また今度ね』
マメな人だなぁ…。
返信する気力がない…薬効いて、ちょっとましになってからにしよう。
そう思いながら、俺の意識は遠のいていった。
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