第9話 田中医院

 熱のせいで二度寝をしてしまった。ハッと目を覚ましたら、目覚ましの時間から三十分ほど経過している。家を出るギリギリの時間だ。


 …休もう…。


 諦めて、携帯を開く。さっき見た原田さんからのメールが、そのまま表示されていた。


『おはよう、昨日はありがとう、また今度ね』


 すごく酔っていたから何を話してたか完全には思い出せないが、俺の広告を褒めてくれたことだけは鮮明に覚えていた。

 ベッドから視線を落とすと、「よってけ」が散らかっている。

 そうだ、昨日は嬉しくて、帰ってきてから自分の関わった広告を眺めていたのだ。

 事務のバイトから始めた仕事。

 本気でやってたわけじゃなかった仕事。

 特に、広告取りは片手間だったし、その内容を考えてあげるのは広告を多く取るためで、内容を考えるのが好きなわけじゃない。CMなんて今でも、とても無理だと思ってる。

 …そういうのは兄貴の専門分野で、俺には何の力もないと。

 でも…。

 散らかった「よってけ」を眺める。原田さんの言葉を思い出す。

 今は、この「思いもかけぬ仕事」が、「俺の仕事」なんだ…。

 ……。

 遅刻してもいい。行こう。


 幸いさっき飲んだ風邪薬が効いているようで、身体の熱っぽさがひいていた。不動産屋さんが教えてくれてた近所の内科に行って、仕事にはその分だけ遅れて出勤することにしよう。

 職場にそんな電話を入れた後、いつもより遅い時間に部屋を出る。少し肌寒く感じて、上着を取りに部屋に戻る。

 再度部屋を出て鍵をかけていたら、隣のあの人が部屋から出てきた。彼はこの時間に出勤してるのかな、と思いながらペコッと頭を下げる。そうしたら、思いがけず向こうから話しかけてきた。

「いつもより遅い?仕事休み?」

「いえ、風邪ひいたみたいでしんどくて。病院寄ってから仕事行きます」

「病院?どこ行くの」

 俺は不動産屋に教えてもらった内科の名を言った。そうしたら彼は『やめときなよ。あそこ、混むよ』と言って別の病院を教えてくれた。

「そっちの裏の道ずっと行って、そしたら左手に見えてくるから」

「ありがとうございます」

「建物がボロでちょっと引くけど、先生はいい人だから」

 先生がいい人…。『腕が確か』とかじゃなくて『いい人』…?

 変な紹介だなぁ、と思ってふふッと笑ったら、彼も俺を見て笑っていた。その雰囲気が兄貴にソックリでドキッとする。やっぱ、なんだか似てる…。

 いや、今はそんなことを考えてる場合じゃないや。

「ありがとうございます。行ってみます」

 朝の忙しい時間に、俺に病院を教えてくれたお礼を言った。彼も「お大事に」と言ってその場を離れていく。その後ろ姿に少し兄貴を思い出しながら、俺も歩き出した。


 アパートの駐輪所へ行き自転車にまたがる。フラフラしないのをちょっと確認して、それから病院へ向かう。

 教えてもらった病院は、確かに建物がボロでちょっとびっくりした。

 田中医院、というプラスチックの看板に蜘蛛の巣が張っている。隣のあの人に教えてもらってなければ、たぶん廃業した医院だと思って入らないだろう。

 きゅーっと鳴るドアを押して待合に入る。受付に向けてソファーが数列並べられているが、腰かけている患者は二人だけで閑散としている。待合に保険証を渡して、代わりに体調のアンケートを受け取り、その場で書いて返した。

 他の患者…おじいさんと、高校生くらいの男の子がぽつんぽつんと座っている。その二人から少し離れて座った。壁に『注射は怖くありません』と手書きで書いた謎の紙が貼ってあって笑ってしまった。思わず他の壁もキョロキョロと見回すと、他に『駐車場はありません』という貼り紙と『あなたの一番の薬は休養です』という貼り紙が貼ってあった。いずれも筆で書いたような字で、上手ではないが丁寧で優しい印象を受けた。

 待合のおばちゃんが出てきて、俺に体温計を渡す。三分くらいかかりますと言われながら、脇に挟んだ。

 高校生が呼ばれ、診察を受けて帰る。俺の体温計がピピピと電子音を鳴らす。液晶が七度三分と表示している。大したことない。大丈夫。

 おじいさんが呼ばれている間に、子連れの女性と五十歳くらいの男の人が新たに入ってきた。待合は常に閑散としているが、人はゼロにはならない。

 変な病院だな。

 でも、この空気感は、確かに隣の彼に似ている気がする。ここで待っているあの人の姿が容易に想像できるのだ。


 おじいさんが出てきた。次に「苅田さん」と俺が呼ばれた。

 扉を進むと、中待合などはなくいきなり診察室になっていて、思ったより若い先生が「どうぞおかけください」と俺を丸椅子に促した。うちの課長くらい…四十代半ばから五十代くらい…かな。筆の字のジジイさんは他にいるのか、それともこの人が筆の字の主なのか。

 喉を明かりで照らして診て「赤いですね」と言いながら、次に俺の胸に聴診器をあてる。腹にもちょっとあてながら「お腹は壊してませんね」と言った。俺も、昨夜はまだなんともなかったこと、今朝目が覚めたら酷い悪寒がして起き上がれなかったことなどを話した。

「風邪ですね~。炎症止めと、熱さましのとんぷく出しときますね」

 とんぷく…ってなんだ…なんか昔の薬みたいな感じ。

「隣の薬局によってって、ね。薬の説明はそこで詳しくやってくれるので」

「はい、ありがとうございます」

 ちょっとだけ頭を下げながら、はだけていた服をいそいそと元に戻した。

「はい、じゃあお大事に」

 絶妙のタイミングでそう言われて、俺は診察室を後にした。


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