第31話 観察する人

 耳を疑う展開だった。


 兄貴に言われた。


『今の職場、辞めて俺と仕事しないか』




 俺と仕事しないか。


 俺と仕事しないか。


 俺と仕事しないか




 …俺と…仕事しないか…


 …俺と…





 俺にとってその言葉は、直前にほんの一瞬妄想した『ヨメは捨てる。俺と二人で海外で暮らそう』に意味が近かった。

 仕事っていう、一日に少なくとも八時間はとられるであろう時間を、今後一緒に過ごさないかと兄貴は言っているのだ。これからの人生、経済的にパートナーとしてやっていきたいと兄貴は言っているのだ。同じ船に乗って共にオールを漕ぎ、舵を兄貴にまかせ、時に進み、時に沈み、そして這い上がる。そういったこれからの人生を、二人で生きていこうと言っているのだ。

 まさしく、俺が待っていた言葉なのかも知れない。


 なのに、…なのに俺は。


 ただ兄貴を想っているのなら即答するような話なのに、…躊躇した。


 今の職場を離れる?


 松本課長とか、二宮さんとか、最近やっと仲良くなった仲間や、総務時代にお世話になった人たちの顔を思い出す。


 バイト時代の給料、社員になってからの給料のことも考えた。そんなに大幅に増えたわけでもないんだけど、お金のことが頭をよぎると、ますます自分の狡さが嫌になる。でも考えてしまった。独立して、やっていけるのかな、と。

 俺程度の人間が。

 兄貴は大丈夫だけど、俺は足を引っ張るだろう。新しい会社を俺が潰すことになったら…。

 それだって怖い。

 ああ。

 人は、愛だけでは生きていけないってこのことか。

 そろばんも必要だと。

 これが大人になるってことなのか。

 少し前の俺だったら…絶対に、すぐに『うん』って頷いたのに。

 俺、世間擦れしたのかな。



 兄貴と一緒に仕事をしたら、独り占めは無理でも、密に関係を保っていられる。それこそ奥さんより濃い関係になる可能性がある。

 兄貴を取り戻したい、兄貴を自分だけの兄貴にしたいって…ずっと思っていたのに、それなのに即答できないなんて。



「いつ?」

「今の仕事の調整があるから、半年から一年ってところかな。ヒロは後からでもいい」


 どうしよう。


 どうしたらいい?


 ああ。

 原田さん。

 原田さんに全部ぶちまけて笑われたい。

『何を悩んでるの』

 だって、どうしていいか分からなくて…。

『じゃあ悩む必要なし。やってみたら?好きなんでしょ?そばにいられる』

 でも…。

『上手くいかなかったら、それはその時悩めばいいじゃん』

 …違うんです。




 たぶん、躊躇う理由は一つじゃないんだ。




 大混乱に陥っている俺を見て、兄貴は笑った。

「いいよ、今すぐ返事しなくても」

 その笑い方も言い方も優しくて、俺が好きなタイプのやつだった。

「兄弟だと土台になる文化が一緒だから、いろいろ説明なしで『いきなりできる』ことってあると思ってるんだ。楽しいと思う」

 それは…あるかもね。

「前向きに検討よろしく」

 そりゃ、俺だって飛びつきたいような話だ。でも。


 

 お昼だったので、アルコール類は口にしなかった。

 あとは他愛ない話をして別れた。

 原田さんのことは聞けなかった。



 電車の切符を買おうとして財布を開いたら、小さいメモが出てきた。

 栗栖さんのアドレス。

 電話…してみようかなって、ちょっと思った。

 思ったけど、やめた。


 やめて、別の人に電話した。




『そう。良かったじゃない』

 思った通りの反応だった。

「いや、俺、迷ってて」

『迷うことないよ。大好きな兄貴でしょ』

 やっぱこの人には分かっていたんだなって思う。

『それとも近づきすぎるのが怖いの?そんなのやってみないと分かんないし、やれることはやったほうがいいよ』

「ううん、そうじゃなくて」


 以前の俺だったら絶対に迷ったりしなかったのに、今の俺は職場の仲間のこととか、他の要素が増えてしまって躊躇しているのだ…ということを原田さんに伝えた。原田さんは電話の向こうでふふふと笑った。

『そうなんだ…少しは兄離れしてたんだね』

 柔らかい気配。久しぶりだ。会いたい。


 会いたいです、会えませんかと聞こうとした時、原田さんがちょっと不思議な発言をした。

『俺、分かってたよ。貴彦はずっと独立したがってたし、いつか君を誘うと思ってた』

「え?」

 何、それ。

『広彦くんは気付いてないよね』

「何のこと、ですか?」

『…言っていいのかな』


 …なに?


「言って」

 原田さんは何に気付いてる?

 俺は何を見落としている?


『君よりずっと、貴彦の方が君に執着している』

「うそ」






『最初に会ったときのこと、覚えてる?』

「うん」

『あの組み合わせ、変だと思わなかった?貴彦でしょ、貴彦の婚約者に、貴彦の弟である君、そこに四番目の人間として呼ばれたのが、俺。君に会う前も会った後も、俺はその意味をずっと考えていた。何故あの場に俺が呼ばれたのか』


 言われてみれば、そうだ。

 変な組み合わせだった。


『…おそらく、貴彦は君に女の子を紹介することになるのが嫌だった。だから美雪ちゃんの友達じゃダメだった。加えて貴彦はあの場を支配する必要があった。話題をコントロールして、和やかな会にしたいと考えた。だから貴彦の知らない人間を呼ぶことは避けたかった。つまり君の友達でもダメ。もちろん君に彼女がいたら…会いたくないからそれもダメ。貴彦は君が自分に好意を持っていることをおそらく、無自覚の部分も含めて『知っている』と俺は想定してる。…だから自分と雰囲気や体格の似た奴もイヤだった。できるだけ、君が苦手と思う人種、興味を持たないような人種で、女性でなく、かつ自分の友達の範囲内で、嫌な話題になったら目で合図できる間柄、それで余計なことを言わないタイプの人間に、「奥さんと弟に挟まれる」っていう「3人きりの微妙な空間」を誤魔化してもらいたいと考えた』


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