第24話 ハンカチだけ
ぽろぽろと泣き出した俺。
原田さんはそんな俺を黙ってじっと見ていた。それから、そっとハンカチを差し出した。青いハンカチだった。
「…好きなんだね」
原田さんの声は、静かだった。
「…ええ…はい…」
声を、絞り出す。
それはずっと心に秘めていて、表に出せなかった気持ちだった。
「ずっと、好きで」
原田さんの表情がとても優しい。こちらの言葉や動きを、よく見て、待ってくれるようで。
それでいて、核心を突く。
「他の誰も、越えられないんだね」
原田さんは…なんか全部分かってるんじゃないかって気がした。
気のせいかも知れないけど。
でも、彼の様子から、何か感じるものがある。兄貴の結婚式での彼の発言も、知ってて言ってるなら納得できる。
いや、それよりずっと前にも、思ったことがあった。
初めて会った日。
会話の中で一瞬違和感を感じた。そしてそれはすぐに原田さんに誤魔化されたんだった。
出会った頃はこの人のことを、何にも考えていない軽い人だと思っていたから、ふと浮かんだ疑問は消えてしまって。
綺麗な青いハンカチ。
悪いなって思ったけど、受け取って、涙を拭いた。
原田さんはいつも通り。爽やか笑顔に戻っている。正直何を考えているのか分からない。
ある意味この人のこの表情は能面と同じだ。
原田さん、もし知っているんだったら教えて欲しい。
俺の、兄貴への想いは「他の何か」で越えられますか?
それとも、兄弟だから、決して切れない絆だから、この先ずっと、他の何をもってしても、越えられないんですか?
「原田さんは、どう思います?俺、今めちゃくちゃ不安なんです。このまま一生一人っきりなのかって…」
その問い掛けに、彼は真剣な表情を見せた。
「それはね、次の出会いに賭けてみるしかない、一人が嫌だったら。それがダメでも、また次に賭けてみるしかない。ずっと、そうやって」
「……」
「いろんな人と知り合って、いつか救われる日が来るかも」
原田さんはそう言って、少し表情を緩めてみせた。
そうか。
一つ一つ、賭けてみるしかないんだ。駄目かも知れないと思いながらでも、出会っていくしかないんだ。
原田さんも過去に何かあったのかも知れない。今フラフラして見えるのは、そのリハビリ中だからなのかも知れない。
正解は無い。それでも、前を向くしかないんだな。
原田さんに奢られて店を出た。来た時と同じ道を、並んで歩いた。
「ごちそうさまでした。ごめん、急に」
泣いちゃったりして。
「ううん」
「ハンカチ、洗って返します」
そう言って、握りしめていたハンカチを自分のカバンに入れようとしたら、原田さんが俺の手とハンカチをまとめて掴んだ。
「良いよ、そのままで」
「え、でも」
「大丈夫」
ハンカチだけ奪って、離れていく手。
あれ?
違和感で足が止まる。
「広彦くん?」
原田さんも、立ち止まる。
「どうしたの」
手を掴まれた時、ドキッとしたのだ。
似たようなことがあったね、最近。
既視感。
ううん。
それは、原田さんではなくて。
…栗栖さんだった。
それで、今、離れていく時、『なんだ、ハンカチか』と思って…。
それで?
原田さんは、栗栖さんみたいに手を握ろうとしたのではなかった。
あの人みたいに、何か言いたくて、手を握ったのではなかった。
ハンカチを取り戻しただけ。
それが、妙な不足感。
何?
俺、原田さんに何か言われたいの?
何を言われたいの。
もうアドバイスは充分もらった。
なのに俺、今、何を考えている…?
「広彦くん?」
原田さんがいつものように俺の顔を覗き込む。
何を考えているか分からない笑顔。
「原田さん、俺」
言ってみた。でも何が言いたいのか、自分でも分からない。
「…どうしたの。不安そうな顔して。もう少し飲む?」
目が合った。
じっと見つめた。
笑顔。
それは原田さんにとっての、能面だ。
やがて、原田さんが俺の頭を撫でて言った。
「しょうがないな。色々頑張ってもうまくいかなくて寂しくてしょうがないんだったら、俺のとこに来ればいいよ。だから安心して」
そう言うと原田さんは、ハンカチを自分のズボンのポケットに入れた。
俺はただそれを見ていた。
優しい。
出会った時からずっと、この人は俺に優しい。
でも多分、俺にだけ、優しいわけでは無いのだろう。
こういう性格で、誰にでもこういう態度で接するんだ。
分かってる。
不思議な人だ。
でも今、突然。
多分俺、原田さんに惹かれた。
そんなバカなと思う。
ただ親切にされたら好きになるのか。
好きって、何?
今までどうだった?
女の子と付き合っていた時。
兄貴を好きだと気付いた時。
かわいいって思ったり、抱きしめたいと思ったり、抱きしめられたいと思ったり、独り占めしたいと思ったり、そういう気持ちと、今と、何が違うんだ。
「…うまくいかなくて寂しくなったら、原田さんのところへ行けばいいんですか」
原田さんは、励まそうとして言っただけ。誤解してはいけない。
「そうだよ。おいで。広彦くんなら大歓迎」
ああ。
いつもの原田さんが目の前にいる。本心を出しているのか隠しているのかさえ分からない、いつもの彼が。
「それは、どういう意味で」
訊いてみる。
「広彦くんのこと、好きだから、それだけ」
それだけ。
「誰にでも言ってるんでしょ」
こちらも茶化さざるを得ない。
「こんなこと、滅多に言わないって」
嘘でしょ。
「嘘っぽい」
軽く睨みつけたら、原田さんはちょっと心配そうな顔をして言った。
「あんまり不安そうにしているから」
そうだね。
俺が不安そうだから言ってくれたんだ。
「励まし?」
原田さんは、肩をすくめた。
「心外だな。広彦くんへの純粋な愛情なのに」
愛情、か。
「そんなことばっかり言ってると、歳を取ってから大勢、家に押しかけてくるよ」
そう言ったら、原田さんの笑顔にほんの少し皮肉っぽさが混ざった。
「はは、無い無い。意外とみんな、落ち着くところに落ち着くものさ」
「やっぱみんなに言ってんじゃん」
強めにそう言ったら、原田さんは俺の肩を抱いて歩き始めた。
「酔ってますね、お客さん」
「そんなことない」
身体が触れ合っていることが切ない。
「いつもより絡むじゃありませんか」
そう言いながら、原田さんはタクシーに向かって手を上げて、こちらを見もしないで呟いた。
「いっぱい、失恋しておいで。フラれてフラれて、たくさん失敗しておいで」
「原田…さん?」
見上げる。
笑顔。
「…待ってるよ。広彦くん」
その笑顔は嫌いだ。
嫌いっていうのは、少し、嘘だ。
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