第33話 夢と思い出

 ウサギが兄貴を奪っていく。

 待って、置いていかないで。


 兄貴の後姿を追って走った。

 でも、兄貴だと思ってた後ろ姿が、いつの間にか栗栖さんに代わっていた。

 栗栖さんが手を繋いでいるウサギは、気が付けば見知らぬ男の人に変わっていた。

 そっか、付き合おうって言われて、即答できなかったから、栗栖さんは他の人と付き合うことにしたんだね。

 仕方がない。

 俺には止める権限もない。




 窓の外を見る。

 色々なことを諦めながら。



 窓に、青いカーテン。



 あれは、見たことがある。

 白黒の部屋に、ニセモノの空があるみたいだ。でも、本当の空よりも美しい。


 …綺麗だ…。


 その青いカーテンを、あの人が丁寧に四角く畳んだ。

 俺にそっと手渡した。

 小さなハンカチ。


 原田さん。


 受け取っていいの?


 いいのかな…。

 ハンカチを受け取った。

 受け取ったつもりが、手から落ちていくハンカチ。わざとじゃなかった。でも目の前の原田さんの顔が歪む。

「ごめんなさい」


 ああ、どうしよう、受け取らなかった。

 ハンカチを目で追う。

 もう、無くなっていた。


 顔をあげたら、原田さんもいなくなっていて、窓の向こうにウサギがいた。

 ウサギがこちらに手を振っている。おいでおいでと言っている。

 行こうかな。

 窓から飛び出した。


 そうか。

 兄貴を連れて行かれるとばかり考えていたけど、自分が出ていくこともできるんだ。

 俺が、兄貴を置いて出ていくこともできるんだ。


 俺、この部屋から出たいって思ったら、出られるんだ。


 簡単なことなのに、ずっと気付かずにいた。

 自分の意志で、ここに留まることも進むことも、俺の自由なんだ。

 兄貴と手が繋がっていなくても、出られる。望む場所へ行ける。



 

『俺から離れるな』

 兄貴が俺の手をギュッと掴んだ思い出。思い出の中で、握りしめた兄貴の手が震えている。

 見上げたら、俺より少しお兄ちゃんの、兄貴の顔が緊張で青ざめていた。こちらに目をやり、震えを隠してニッコリ笑った。小さな弟に虚勢を張っているのが分かる。


『大丈夫』

 兄貴が、俺に言う。


 いや、違う。


 兄貴は自分にそう言っている。


 兄貴が俺を抱きしめる。とても気持ちが良い。でも多分、兄貴も俺を抱きしめることで安心を手に入れている。

 兄貴が、小さい弟俺を抱きしめながら『大丈夫』と、もう一度呟く。


 …この人を守らなければ。

 俺はこの人から離れちゃいけない。








 目が醒めると、俺は自分の部屋のベッドにいた。

「大丈夫?」

 栗栖さんがいて、ビックリした。

「ああ、ごめん。ドア開いてたよ。開けたらすごいうなされてたから、なんか帰れなくて」

 そっか。ビール飲んで寝ちゃってたんだ。

「鍵、開いてましたか」

「うん。1階だから、閉めた方がいいかな」

 忘れてたらしい。

「怖い夢、見てたんです」

 そう言ったら、栗栖さんが俺の額に手をあてて『熱、あるかも』と言った。またか。

「体温計、ある?」

 そう訊いてくれたけど、『いや、いいです』と断る。もうさっきみたいに身体は痛くなかった。

「熱があるとしたら知恵熱かも。なんか考えないといけないこといっぱいあって」

「知恵熱?」

 栗栖さんが目を丸くした。


 夢の内容を思い出したら、本当に自分は大人になっていないと思った。

 俺、兄貴を守ろうって、多分小さい時に思ったんだ。

 具体的に何かあったわけじゃなくて、暗示のようにそう感じていたんだ。


「知恵熱が出るとか、小さい子みたいだね」

 栗栖さんがそう言った。

「まだ…子どもなんです」

 そう呟いたら、栗栖さんは微笑んだ。

「じゃあ、こんなことしたら捕まるかな」

 そう言いながら、近づいてきた。

 怖いよ。

 ああ、まずいな。

 今すごく身体が重い。

 体調が悪い訳だし、熱があるかも知れないし。

「身体は大人なんで捕まらないですけど、心は子どもなんで、距離はできます」

 そう言って、胸板を押し返した。

「そう」

 栗栖さんが『どうしようかな』と逡巡している。やめとけよ。病人だぞ。

「距離ができちゃった後、縮まる可能性ある?」

 何言ってんの。

「…それより、熱のある人に同意なく襲いかかって、悪いと思いませんか?」

「まあ、少しは。でもほら、チャンスは少ないし」

 栗栖さんが身体を起こした。俺の本気の不愉快が伝わったのだろう。

 ふぅ…。

 危機回避か。

「こんなの、チャンスでもなんでもないでしょ」

 栗栖さんが何かやらかす人だとしたら、この前の晩に何かされてる。

「水分、何か飲んだ方がいいよ。アルコールじゃないもの」

 そう言って、栗栖さんは俺のゴミダメみたいな部屋の中を歩いた。切り替え速いな。

「冷蔵庫、開けていい?」

「はい」

「水で良い?」

「うん」

 そんな会話の後、水のペットボトルを持ってきてくれた。

「ほら、とりあえず飲んで」

「うん」

 身体を起こした。

「病院、行ける?」

「寝れば治ります」

「早く治って、俺に隙を見せて」

 何を言っているんだか。

「自分のことは大切にして」

「うん」

「知恵熱が出るくらい悩むことがあるんだったら、俺で良かったら聞く。聞かれたくなかったら聞かないけど」

「…ありがとう」

 栗栖さん、いい人だね。

「一晩ついていてあげたいけど、悪いことしちゃったらいけないから、戻るね」

 悪いことって、何だよ。

「鍵、かけとくよ。どこ?」

「…どこだろ。靴箱の近くかな」

「適当に探して、鍵かけてポスト入れとく」

「うん」

 部屋を出るとき、栗栖さんがもう一度振り返った。


「治ったら俺と付き合おうよ」


 何でだよ。


 


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