第37話 めまぐるしい

「え?何?」


 訊き返した。

『入院してる』

 兄貴は何を言ってるんだろう。

「…誰の、話?」

『原田。二ヶ月くらい前からだ』

 二ヶ月前って。

「何言ってんの」

 俺、数週間前に電話で話したよ。


 電話の向こうで兄貴が黙り込む。


「ほんとに?」


 あの時すでに入院してたってこと?

 病院で、電話出てくれたってこと?

 そして今日は、出ることができないの?


「病気?…怪我?」


 頭の中がクエスチョンマークだらけになる。

 二ヶ月?

 最後に会ったのいつだっけ。


『ほんとに何も聞いてないのか』

「うん」

 だって。


 兄貴がまた黙ってしまった。

 何?

 沈黙が怖すぎて口を開く俺。

「原田さんって…」

『ヒロ』

 遮るように兄貴が言った。

『明日、一緒に見舞いに行くか?』




 最後に会った時。

 原田さんは泣いてた俺を慰めて、タクシーに乗せた。孤独が辛かったら、最後は俺のところにおいで…と言ってくれたけど、それらは終始戯けている様子で、本心では無いと感じた。


 俺が兄貴を想っていることを早々に見抜いていて、それを気持ちが悪いとも、止めるようにも言わず、ただ受け止めてくれた。

 そのことが嬉しかった。

 気持ちを否定されないことが嬉しかった。


 兄貴を想う気持ちにずっと罪悪感があった。兄貴を想う自分への嫌悪感も、どこかにずっとあったんだと思う。

 でも原田さんは受け入れてくれた。

 はっきり言葉にする前から、受け入れてくれているような気がずっとしてた。だから会うのが楽しかった。気楽に会ってくれるから、会えることを当たり前みたいに思ってた。気楽に会えるから…こんな気持ちになるとは、思ってなかった。




 仕事帰り、俺は兄貴と病院のロビーにいた。

 兄貴はほとんど話さない。何か尋ねようとすると、まあ会って本人に聞けよと言う。

 会える状態なんだなと思って安心したりもする。


 総合病院のロビーは広くて、目の前にエスカレーターがある。そこから枝分かれした色んな診療科があって、今の俺には原田さんが病気なのか怪我なのかすら想像できない。


 わざわざ家に戻って、あの青いセーターに着替えてきた。次に会うとき着て来てと言ってたから。ジャケットから、綺麗な青がチラッと覗いている。

 似合わないなと思った。


 病院の受付で、兄貴が係の人と話した。確認するのでお待ちくださいと言われて、二人で並んで座っている。

 振る話題が無くて困った。じっと黙って座っている間、俺と兄貴はこんなに話題が無かっただろうかと思った。


 ドキドキも、しない。


 ただの入院患者のお見舞いにしては待たされるな、と思った時、『苅田さん』と受付から呼ばれた。二人同時に立ち上がる。


「お尋ねの患者様は本日はお会いになれません。申し訳ありません」

「体調不良ですか?」

 兄貴が聞くと、受付の女性が『個人情報でお伝えできませんが…』と前置きをしたあと小さく頷いた。



「ねえ、重い病気なの?」

 病院のロビーを、出口に向かって歩きながら俺は訊いた。体調不良で会えないのだから、病気で入院しているんだろう。

 そんなストレートな質問さえも、兄貴は応えてくれなかった。

「…原田が言わなかったんだから、俺から言えない。大したことでも、そうでなくても。また会えるはずだから、本人から聞いたほうがいい」

 確かにそうかも知れないけど。

 もどかしい。

 原田さんのことは何も知らない。

 あんなに助けてもらったのに何もできないことが苦しい。

「体調、良くなるかな」

「うん」

 兄貴を見上げた。

 とても硬い表情をしていた。

「……」

「……」

 二人、無言になる。一緒の職場にいる兄貴の分からないことなど、俺にはもっと分からない。

「帰るか」

「…うん」

 仕方なく立ち上がり、ロビーを出ようとした時、後ろから声がした。

「苅田くん?」

 振り返ると、綺麗な女の人がいて、兄貴の方を見ていた。

「有子さん」

 兄貴が驚いて足を止めた。

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

 兄貴が敬語を使った。この女の人の方が兄貴より先輩なんだ。

「うん。元気。こちらは?」

 有子さんの視線がこちらへ向いた。

「弟です」

 兄貴が紹介し、俺はペコっと頭を下げた。

「弟さん?」

 有子さんは不思議そうな表情で俺を見た。似てないと思っているんだろうな。

「今日は…原田くんのお見舞いに来たの?」

「はい。でも体調が悪いのか、会えませんでした」

「私は少し前に来て、会えたの。でも会った時からとても顔色が悪くて、看護師さんを呼んだ。今日はそれでおしまいだった。ほとんど話もしてないけど、会えただけマシかな。…また来ることにする」

 そっか。会えたんだ。良いなぁ。

「俺も、日を改めます」

 二人で頭を下げ合っている。

「じゃあ」

 有子さんが去っていった。俺は訊いた。

「会社の人?」

 兄貴が頷いた。

「うん。もう退職した」

 退職した人か。

 …わざわざ見舞いに来るんだ。

「原田さんと仲良かったんだね」

 少し探りを入れた。

 兄貴がチラッとこっちを見た。

「…前に言ってた、原田と仲の良かった受付の人」

 え?

 じゃあ、原田さんと付き合ってた人?

 または、原田さんとの間にお子さんがいる…人?

 ……。

 兄貴を見上げる。

 目が合った。

 お互い、複雑な表情になった。

「…どうして見舞いに来たんだろう」

 思わず呟いたら、兄貴は『さあな』と言った。

「原田はとにかく、色々謎が多いよ」

「…うん」

 本当に。


「ごめん、今日は帰るよ。また時間ができたら連絡する」

 病院を出たところで、兄貴がそう言った。

「うん。今日はありがとう」

 誘ってくれて。

「じゃあ」

 お互いに手を振って別れた。

 なんとなく、去っていく兄貴の背中を見ていた。

 以前とは違う感情があった。

 複雑で、言葉にならない感情だった。

 どうしてこの人を独占したかったのか。

 どうしてこの人に関わる色々に嫉妬していたのか。

 分からなくなっていた。

 長年の自分のアイデンティティーが崩れて、それは有難い事なのに、胸に空洞ができたような虚しさと寂しさがあった。

 さよなら。

 さよなら兄貴への片思い。

 めちゃくちゃ好きだった。誰にも渡したくなかった。2人きりの世界でずっと遊んでいたいと思ってた。でももうそんな思いもとけて消えた。



 兄貴が見えなくなってからだった。

「ねえ、苅田くんの弟くん」

 そう声をかけられた。



 




 


 



 


 

 

 

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