第29話 兄貴からの電話

 朝、目が覚めたら俺はベッドで横になっていて、栗栖さんはいなくなっていた。

 変な体勢で寝てしまっていて背中が痛い。

 今日…まだ平日。

 仕事に行かねば。


 身体を起こしたら、栗栖さんが座っていたあたりにメモ書きが落ちていた。


 電話番号とメールアドレスが書いてある。

 予告通りに眠っちゃって、栗栖さんには悪いことをしたな、と思ったが、じゃあずっと起きていたらどうだったかと言うと、それはそれで想像もつかない。

 メール…と電話番号…。どうしようかな。

 そう思いつつ、メモを財布に入れた。

 俺のアドレスも伝えた方がいいんだろうか。

 いいんだろうな。


 でもな。


 人っていろんな距離の詰め方があるな。

 告白される前なら、連絡先の交換は容易だった。意識する必要が無ければ。


 原田さんのことは、全然意識してなかった。

 互いにそんなふうに意識する空気もなかったからこそ、出会って早々に連絡先を教え合えた。

 原田さんと俺。

 距離の詰め方は、友人関係を築くためのよくある道のりに過ぎなかった。原田さんには、何故だろう、出会って間もなくから何でも話せた。兄貴の同僚であるにも関わらず、緊張もせず何でも、だ。よく考えてみると不思議な状況ではあった。

 不誠実な女好き、という兄貴からの情報もあまり気にならず、人として会うのが楽しく、興味深く、気楽で、面白かった。


 栗栖さんは俺の手を掴まえて握って、原田さんは、ハンカチだけ取り戻してするりと消えた。二つの出来事が似ていて、真逆で、何だか自分の中でバランスが取れないままだ。


『…待ってるよ、広彦くん』

 

 あの日原田さんがあんなことを言ったのは、俺が不安そうにしていたからだ。俺が、このまま孤独に生きていくんじゃないかと怯えていたからだ。不誠実な女好き、じゃなくて不誠実な両刀の人、かも知れないし、実はそうでないのかも知れない。エセ爽やかさんかも知れない。ちっとも本音を見せない。けど、あの人は多分俺を心底助けようとしてくれた。


『いっぱい、失恋しておいで。フラれてフラれて、たくさん失敗しておいで』


 原田さんの言葉を思い出す。

 何の呪いだよ。

 でも、気が楽になる呪いだね。

 何度もうまくいかなくなって、何度も失敗して、それでも人は生きていける。

 その時出会う誰かと、生きていける。そう思えた。

 原田さん。

 今はもう、あの青いカーテンのベッドルームに他の人を招いているかも知れない。


 ああ、でも。


 その事を考える時、平静でいられない。胸がザワザワしてしまう。なんか、嫌で。



 …会いたい。



 なんか俺って、優柔不断だ。

 栗栖さんの事も、いざ告白されたら戸惑ってしまって、今では少し距離を置いて冷静になろうなんて考えている。

 原田さんとも、次に会った時に何かが起きたりして面倒に思うかもしれない。


 この決断力の無さよ。


 そんなことを考えて、兄貴のことは、ちょっと心の棚の高いところに放り上げられていた。

 しかし、その日の夜、本当に久しぶりに兄貴から電話が入った。

 結婚式で会って以来だった。


 着信の画面に表示された兄貴の名前に驚きつつ、テンション低めの第一声を放つ。

「どしたの」

「いや、ちょっと会えないかなって思って」

「今から?」

「いやいや、もう夜十一時だし」

 兄貴が笑っている。笑いながら『次の土日、あいてない?』と訊いてきた。

「いいよ。日曜なら」

「じゃあ、昼飯おごる」

「まじ?」

 一瞬喜びかけたけど、ヨメさんも来るのかな。

「…奥さんは?」

「え?ああ、美雪は来ないよ。連れてった方がいいなら声かけとくけど」

 みゆき、だって。へっ。

「いや、いいよわざわざ」

 っていうか、絶対連れてくんな。

 邪悪な俺がちょろりと顔を覗かせる。


「じゃあ、ヒロのとこまで車で迎えに行くから」

 その言葉にウン、と言いかけてハッと思い出した。

 うちに来たら、隣に住む栗栖さんと鉢合わせするかも知れない。

 …多分、まずいよな。

「いや、俺午前中ちょっと出てるかも知れないから、自分で行く」

「そっか」


 そんなふうに、兄貴の職場近くの駅付近で待ち合わせることにした。原田さんち近いけど…原田さんにバッタリ会う分には問題ないよな。

 …バッタリ会わないかな。

 むしろバッタリ会いたいんだけど。

 

 なんか、ちょうど兄貴挟むくらいの距離感で喋りたい。


 無理か。


 まあいいや、会うのは無理でも、兄貴にちょっとだけでも原田さんの近況を聞いてみよう。それで、あの人が相変わらず女の子に声をかけまくって、合コンに参加しまくって、新しい出会いに邁進しているようだったら、原田さんのこと、忘れよう。そんな様子が聞けたなら、あの日の会話は九割九分励ましだったと強く思えるし、勝手に脳内で書き変わっていってる原田さんの良いイメージも下方修正されて、やっぱ軽い人だなって思えて、心が収まるかも知れない。


 そんな事を考えた。

 兄貴と二人きりで会う約束をしたのに、俺はすっかり原田さんの事ばかり考えてしまっていて、しかもそんなふうに自分が変わってしまった事にも、気づいていなかった。



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