自分でも変だと思うんだ
石井 至
第1話 お盆の珍事
兄貴が二年ぶりに帰ってきた。彼女を連れて。
係長とやらに昇進してから、忙しいことを理由に正月にさえ帰省してなかった兄貴だ。
俺と母さんに、一週間前くらいに同時にメールが来た。「お盆に帰ります」っていう内容のメール。
メール…。
久しぶりの兄貴からのメールに、なんだかそわそわした。ざわついた心で、兄貴の部屋の中をぐるぐる歩き回った。その時は、まさか彼女を連れての挨拶だとは聞かされてなかった。一人で帰ってくると思っていたのだ。
ベッドも、机も、出ていく前のまんま置いてある兄貴の部屋。母さんがたまに掃除をしているけど、物の位置は特に変化のない、あのままの部屋。
扉を開ける。ベッドに倒れてみる。兄貴のベッド。帰ってきた日はここに寝るのかな。二年半前にひょっこり帰ってきた時はどうしてたっけ…そんなことを考えたりしていた。
あれは年末…というか、大みそかの日の夕方だった。兄貴は連絡も無しに突然帰ってきたが、その時は一人だった。まるで家を出て行ったことなど無かったみたいに家と家族に溶け込んで、晩飯を家族五人で食べた。その後も、リビングのコタツでみかんを食べたりして。
夜になり、母さんが親戚の女の子の着付けをするんだといって姉さんと一緒に出て行き、父さんは部屋で寝るといって二階に上がった。
久しぶりに、俺と兄貴は二人きりになった。コタツで背中を丸めた大の男が二人。あの時は…俺が二十四歳で兄貴が二十八歳だった。
小さい頃から、兄貴は話をすごくよく聞いてくれた。その日も俺は愚痴ばっかりこぼして、兄貴はうんうんと頷いてくれた。
あの時の俺の状況と言えば、職にあぶれ、地域限定地方雑誌の『ただの事務補助』のアルバイトをやっていた。そして、ただのアルバイトなのに、いつの間にやらカメラを持たされたり、企画を出すよう言われたりして困っていた。
兄貴は広告関係の会社に勤めていて、俺の苦労をよくわかってくれた。俺に「却って自由で羨ましい」と言ってくれたりもした。
あの仕事はアルバイトには荷が重い、辞めたいって言ったら、「もうちょっと我慢してみたら」と兄貴は言ってくれたのだ。我慢してたらいいこともあるとか、面白さもわかってくるかもとか、そんなことも言ってくれた。今はヒロ(俺のことだ)の修業時代で、どんな仕事でも嫌な目には必ず合う、けど、後で良かったと思うこともあるし、しんどい時に知り合った人が後で助けてくれたりもするし…。そんなようなことを言って励ましてくれたりもした。
俺が何の気無しに机の上のかごからみかんを一つ取ったら、どっちのが甘いか千円賭けようぜ、と兄貴も一つ手を伸ばした。
兄貴が負けた。すっぱい顔でみかんを食べながら、俺に安いお年玉をくれた。
兄貴の手はでかくてゴツい。指も太い。骨や節がハッキリしていて、手首もがっしりしている。それから腕の筋肉がはっきりしていて、ゴツゴツと動いて自己主張をする。
昔から、なんだかそういうところに目がいくし、憧れていた。
狭いコタツの中で脚がぶつかるのを、俺はちょっとドキドキしながら気にしていた。兄貴の脚も、あまりにも俺と違いすぎて…。
好きなのだ。
コタツの中の兄貴の脚はぶつかるたびに俺を蹴っ飛ばしたり、足の指で器用に俺の足をツネったりする。
「いてててて」
「邪魔邪魔」
「なんだよ、兄貴がでかいんだろ」
「ヒロはいつもこのコタツ占領してんだから、たまに帰ってきた兄貴に遠慮をしろ」
「勝手に出てったクセに偉そうにすんな」
「でかい俺が出て行って、お前も広々暮らせるだろう」
兄貴は、俺の気持ちを知らず出て行った。
大好きな兄貴。頼りにしてた。なんの根拠もなくずっと一緒にいるもんだと思ってた。
なのに、出て行ってしまった。就職を機に一人暮らしします、って言って。
確かに兄貴の就職先は、実家から近くなかった。
でも、通えない距離でもなかった。車で行ける範囲だった。
たぶん、何かを口実に一人で暮らしてみたかったのだろう。
俺は酷く寂しくなってしまった。毎日顔を合わせることを当たり前だと思っていたのに、出て行ってしまったのだ。
こんなに兄貴が好きだということは、変なことなのかな。
でも生まれてこのかた二十年以上、一緒に暮らした人なのだから、寂しく思って当たり前なんじゃないかな。
この感覚は、一旦何だろう。
悩まなかった訳じゃ無い。いや、充分過ぎるほど悩んだ。変なのかな。他の兄弟はどんな感覚で過ごすんだろう。みんな同じかな。違うのかな。
誰にも聞けやしなかった。
兄貴とどうにかなりたいわけじゃない。…なんて言おうもんなら余計怪しい感じかするけれど、でも俺は実際そこまで悩むほど考えたのだ。
男が好きなわけじゃない。彼女も今まで三人いた。
俺が兄貴に求めているものは、とにかく話を聞いてもらったり、認めてもらったりしたいってことであって、ヘンな感情じゃない。
でも…誤解を承知で告白するならば…できれば、あの大きな体で抱きしめられたい。
あの人に甘えたい。
兄貴が、俺よりも二十センチくらい大きいあの体で、俺の倍ほどありそうなあの太い腕で、俺をぎゅっと抱きしめたらと思うと、ゾクゾクする。
そしてもしも実際に抱きしめられたなら…。
おそらくとても安心するだろう。そのまま眠りについてしまうかも知れない。あれほど落ち着く場所はないだろうと思う。そのことを想像すると、兄貴の、その場所を独占するのであろう人…彼女とか、そういう立場の人たちに嫉妬してしまう。
子供の時はそこは俺の場所だった。それが中学生になり、高校生になり、そういった子供っぽいスキンシップは廃れてしまった。
でも、子供っぽいけど、俺には大事なものだった。
コタツで寝転んで、会話していたつもりの兄貴から『うんうん』という相槌が消えたころ、俺は本音をつぶやいた。
「タカちゃん、俺、寂しいよ」
時計は四時をさしていた。朝の四時。まだまだ外は真っ暗。リビングのコタツに俺たち二人。
「もっと、帰ってきてよ」
そう言いながら、足で兄貴の脚をつつく。眠ってしまっている兄貴からの返事はない。
「…寂しいよ…」
聞いていない人に、酒の入った愚痴を言う。
独り言。
何を話しただろう。
言い足りなかった仕事の愚痴も、兄貴がいないことへの愚痴も言って、コタツの中で脚を蹴ったり、自分の足をのっけたり、ちょっとだけ調子に乗って…手を伸ばして、足を触ってみた。靴下越しの指とか、少し触って…。酔ってたから。
…大好きだった。
お盆にやってきた兄貴の彼女はごく普通の人だった。うちに来て、とても大人しくしていて…正直なところ、どんな人なのかは分からなかった。
家に来たのは、結婚の報告だった。もう日取りも場所も決まっていた。向こうの親にはとっくの昔に挨拶に行っていたようだ。
兄貴が、結婚する。
この人と。
美人といえば美人だった。頭が良さそうだった。服装も、白いシャツにベージュのスカートを着ていて、いかにも彼氏の親に初めて会う感じ、清潔感が溢れていた。
背は高い方だと思うけど、兄貴といると小さく見える。
兄貴の趣味ってこんなんだったけ、と思いながら俺は出かけた。親に会いに来たのに、弟までいたら面倒に感じるだろうと思って。
ううん、幸せそうな二人を見ているのが辛くて。
彼女から、俺の大好きな場所を、一生自分のものにしたと目の前で宣言されているようで辛くて。
嫉妬している自分が変だと分かっているのもすべて辛くて。
外は暑くて、俺には行き先が無かった。こんな年齢まで親と一緒に暮らしていちゃいけないってことに初めて気がついた。コンビニに入り、住宅情報誌を手に取る。パラパラとめくったが情報がただ目を通過していく。
こんなんじゃ駄目だ。
コンビニを出た。
ぷらぷら歩いた。最初に目に止まった不動産屋に入った。
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