第2話 隣の住人
そんなきっかけで、二十七歳にして初めて、俺は一人暮らしを始めることになった。全くの思い付きだった。
職場の近くで、アパートを借りた。
ワンルームでいいと思っていたけど、不動産屋のおじさんが、ワンルームはすぐ引越ししたくなるよ、と言った。
「お仕事持っている人はね~、ワンルームだとだんだん手狭に感じるんですよねぇ…」
「そういうもんですか」
「狭い所に帰ってくるのが、だんだん辛い感じになるみたいで」
「…そういうもんですか」
「これどうでしょうね、1LDK。ほぼ南向き。一階の割に明るいですよ」
見せられた間取り図を見る。
「築十一年だけど、結構キレイですよ。一階ってのが気にならないんだったらお勧めです」
一階が気になる?
きょとんとした顔をしてみせたら、おじさんは笑った。
「防犯面とか、虫が入りやすいとか、ま、いろいろ避けるお客さん多いんで」
「あ…そういうもんですか」
ずっと一軒家の実家で暮らしていたから、何が不自由かと思う。全く気にならないし、二階以上より安かったので仮押さえしてもらった。何日か後に、その部屋を見に行って、気に入って、そのまま契約した。
親はビックリしていたが、まあ結構な年齢だし、別に止める様子も無かった。いってらっしゃいなんて言ってたから、すぐ戻ってくるとでも思っているのかも知れない。
契約してから二週間後に家を出て、そうしたらすぐに兄貴から携帯に電話が入った。
「なに?」
『お前、家、出たの?』
「うん」
『なんで?女?』
違うよ。違う。
俺が鼻で笑ったら、気配を感じたのか兄貴も笑った。
『違うのか』
「うん」
兄貴が結婚すると知って、いても立ってもいられず、つい…とは言えなかった。でも他の理由も考え付かない。
だから、ただ黙っていた。
『大丈夫か』
兄貴の声。電話って、耳元で囁いているみたいな感じがする。
「大丈夫って、何が?」
『…メシ…とか』
ちょっとだけ歯切れの悪い兄貴の言葉。その微妙な癖を反芻しながら目を閉じる。心配してくれているのが伝わってきた。こらえきれず、天を仰いだ。
「…もう俺、大人だよ」
少ししめっぽい声になってしまったのに、気付かれないか。
『そっか…そうだな』
「兄貴なんか、今の俺より若い時から一人で暮らしてるだろ」
『…そうだな』
好き…とか、単純な言葉では表せない。俺の心配をしてみせたり、かと思えば「くっだらない」イタズラをしてきたり、いつも俺よりちょっと前を歩いていたり…。
ずっと憧れてた背中。
でも、あの大きな背中が時々小さい子どもに見えたりするんだ。
ねえ…この気持ちは、言葉にできない。
もっと近くにいたかった。ずっと、ただ弟のままで。
いつか…そうなれるのかな。俺の心は「ただの弟」に戻れるだろうか。
戻らなきゃいけないな。だって、この人、今から結婚するんだぜ。
俺はただの弟だ。
『落ち着いたらまた電話しろよ。メシ食いに行こう』
低くて静かな優しい声。
あんたは「ただの兄貴」のつもりなんだろ?
「うん、落ち着いたら」
だから「ただの弟」のふりをするよ。
独り占めしたい気持ちが愛なのかどうかは分からない。
だけど、見ていられないんだ。彼女とのこと。
『今、段ボールだらけだろ』
その穏やかな声が好きなんだ。俺だけのものでいてほしかった。
「まあね」
兄貴の耳に届く俺の声は、チンケなクソガキのまんまなんだろう。
『お前、一か月過ぎても段ボールだらけの部屋で暮らしてそうだな』
「まさか」
なんて返事をしてから、「それもアリかな」とつぶやいた。
『ばーか。ナシだよ。早く片付けろ』
兄貴の笑い声。
会いたいよ、兄貴。結婚なんかしないで。抱きしめてもらいたいなんて言わない。また俺とバカやろうよ。
俺と。
結婚しないで、俺だけの兄貴でいて、と叫んでしまいたい。
叫んでしまいそう。
「…もう、切るよ。明日早いから」
つまらないことを言ってしまう前に。
声を、脳に刻み込みたくて目を閉じる。
『…ああ、そうだな』
兄貴の声。ああ。好き。やっぱり、好きなんだと思う。胸が苦しくて…。
おやすみと言って電話を切った。
一人の部屋で兄貴の声を聞いたせいで、実家でいる時より切なくなってしまった。でもたぶん、ただ寂しいだけだ。
もし電話中にもっとはっきりと泣き声になってたら。
なあ、どうする?ビックリするだろ。
でも来ないよな。
泣いてる弟のために、会いにきたりしない。
彼女が電話で泣いていたら、きっと兄貴はかけつけるだろう。でも弟は違う。
そんな「あたりまえのこと」を考えながら部屋を出た。
夜の十時過ぎにしては明るい街。駅が近いからか。実家のある住宅街周辺だったら、もう真っ暗闇だ。
歩いて二、三分のところにあるコンビニに入り、缶ビールを買う。明るい光の中から出るとすぐにプルトップを引いて一口飲んだ。
酒は強くない。でも、夜の道を歩きながらビールを飲むなんて、なんだか強くなった気がする。
ふふふ。
大人になったな、俺。
歩きながら、ビール飲んでるぜ、俺。
ははは。ははははは。心の中で笑ってる。
…やっぱちょっと酔ったか。
兄貴のこと、忘れてもっと別の人に夢中になりたい。
職場にかわいい女の子が入ってきますように。
それが駄目なら、せめて別のことに夢中になりたい。
あまりに趣味がなさすぎる。
空の星にお願いだ。この空しい気持ちを埋めるものをください。なんて、考えるだけバカみたい。誰も聞いてはくれないさ。そう自虐しながら、アパートの郵便受けのカラッポを確認し、部屋へ向かった。
あれ?
隣の部屋の前に誰かいる。鍵を探しているようだった。
めんどくさいな、挨拶しないといけないのかな、顔合わせるのイヤだからゆっくり歩こう…と思った瞬間、相手が顔を上げ、目が合ってしまった。
相手が、無表情に頭をぺこりと下げた。
うわッ…と、歩みを止めてしまったのは、その動きが兄貴に似ていたからだった。数秒遅れて、俺もゆるく会釈した。そうしたら、ちょっと相手の頬が緩んだように見えた。その感じも、兄貴に似ていた。それだけのことで、俺の心臓はバクバク鳴り始めた。あと、鼻の頭がツンとして、本当にどうしてだか分からないが、涙が出そうになった。そんなことには気付かず、奴は鍵を開けて奴の部屋へ入っていく。
俺も慌てて自分の部屋の鍵を開けて中に入った。急いで鍵をして、それから泣いた。声も出さずにただ、涙だけがボロボロッとこぼれて、本当に自分ではどうしようもなかった。兄貴を独占したいっていう子供じみた考えと、見知らぬ赤の他人を見て兄貴を思い出した自分が、あまりに情けなくて泣いた。
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