第35話 一生懸命
缶ビールを一本だけ握りしめて歩く。
「一本だけ?」
案の定、栗栖さんがそう訊いてきた。
「最近、悪酔いしてた気がして」
最後に栗栖さんと会った時も、酔って寝て、多分熱出して寝てた。
「セーブしてんだ」
「まあ、うん」
思い出して、ちょっと笑う。その様子を見て、栗栖さんが『どうしたの?』と訊く。
「なんでもないです」
「ほんと、思い出し笑い多いよね」
「そうですか?」
そうかな。
「…広彦くんが笑ってるの、なんか、良いなと思うよ」
そんな、返事しにくい事を言われても。
「誰でも…笑っていた方がいいと思いますよ」
ふんわりした返事で逃げる。逃げたのが伝わったのか、栗栖さんがニヤッと口の端を歪めた。
もうアパートが見えてきた。
栗栖さんの履いている靴、コンバースのスニーカー。今日仕事休みだった?さっきコンビニ前で会ったのは偶然じゃなくて、もしかして俺を待っていたのか。
いや、自意識過剰だな。そんなわけ無い。
「ねえ、体調良くなった?」
「ええ。翌日には仕事行きましたし」
「じゃあ俺と付き合おうよ」
「じゃあって何ですか」
雑だな。体調良くなったら付き合おうって、勝手に宣言してたのは覚えてるけど。
「体調でも何でも良いんだ。きっかけみたいなものがあれば」
「何言ってるんですか」
「病気の人に迫るのは良くないって君が言ったから」
ああ、そんなこと言ったかも。
「それに、俺のこと、ちょっと気になってたって、言ってたじゃん。ちょっとでも気になる人って貴重な出会いだと思うけど」
貴重な出会い。
ここしばらく、色々あったな。
栗栖さん。原田さん。職場の異動による人間関係の変化。
変化といえば、新しい角度で兄貴を捉えることができた。
新しい兄貴だ。
お互いに、多分必要だと思っていた。
思い過ぎていた。
「いやさ、俺、自分で言うのも何だけど優良物件だと思うよ。若い時は起業で忙しかったからあんまり遊んでないけどさ。あ、あと不動産持ってる」
真面目に自分を売り込んでいるのか、冗談を言っているのか分からなくて、チラッと横目で栗栖さんを見る。
俯き加減。表情が分からない。
「俺、ほんとに自分のこと周りに言ってないけど、必要だったら苅田には伝えて頭を下げる。もちろん黙っていた方が良ければ黙っている。広彦くんの希望に合わせるから」
ん?
「そこまで考えてるんですか」
付き合っても無いのに。
「うん。本気なんだもん」
結構本気らしい。
なんだか妙な気分だった。すごく一生懸命口説かれている。もしかしたら人生初かも知れない。このこと自体は嬉しい気がする。
俺のどこが好きなんだろう。そう思ってしまったけど、訊かないことにした。訊いたら、希望が膨らんでしまう気がして…。
俺が二人いて、一人栗栖さんに渡せたら良いのに。そう思うほど、栗栖さんに応えてあげたい自分もいる。
でも、自分の気持ちを整理したい自分がいて、正直そっちがメインの自分だ。
もしも俺が二人いたとして、栗栖さんに渡すのはダミーだ。俺じゃ無い。
…うん。
そうだ。
栗栖さんと話してるの、楽しいけど、今こうしてる間も会いたい人がいる。その人のことで悩みたい。その人のことで、頭の整理をしたいって思ってる。
ちゃんと終わらせられていないから。
アパートの前まで来た。足を止める。
「じゃあ」
お別れの挨拶。栗栖さんが焦った様子で言った。
「えっと、あの、広彦くん」
それ以上言葉が出て来なくて口をパクパクさせた。
「ああ、ダメだ。俺、今何も言葉が出てこない」
素直にそう言うから、ちょっと笑ってしまった。
「笑わないでくれよ」
「いや、笑わせにきてるでしょ」
「もう会えない気がして」
なんでだよ。
「大袈裟だなあ」
「大袈裟とかじゃないよ。また急に出張入って帰れなくなるかも知れないし、俺の仕事って割と相手に合わせないといけないから」
「隣に住んでるでしょ。会えますよ」
「せめて連絡先」
「必要になったら俺から電話します」
電話番号のメモは貰っている。
「熱出しても連絡して来ないだろ」
栗栖さんが顔を歪めた。
「困ったら、お隣りさん助けて!って言います。多分」
「広彦くん、先に苅田に連絡しそう」
「いやいや、新婚さんにそんなことしませんって」
言ってから、なんだか不思議な感覚になった。
今、兄貴夫婦のことを『新婚さん』って表現した時に、前に感じたような不快感がほとんど無かったのだ。
「あ…」
「どうした?」
栗栖さんが不思議そうに俺を見ている。
「いえ、何でも無いです」
俺、もう大丈夫かも知れない。兄貴のことは、一山超えたかも知れない。
いや、まだよく分からない。
「おやすみなさい」
そう言って、栗栖さんと離れた。鍵を開けて、一人部屋に戻った。
長い間俺を悩ませていた問題が、解けていこうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます