黄色の子供たちへ
厳島くさり
第1話 茉希名 一
大きく開いた窓の横、少女が古びた壁にもたれかかっている。
折り畳まれたカーテンに隠れ、陽光が反射した明かりで読書をする。
じりじりと照りつける太陽が地面のコンクリートを熱している。九月のはじめ、夏の終わりとは思えない刺々しさがあった。
開いた窓からは不快な暖気が草の匂いを運んでくる。使い古された冷房は頼りにならなかった。茉希名は纏わり付くような熱気にも構わず頁をめくり続ける。短めの髪に覗くうなじは汗でじっとりと濡れていた。
高校の図書館で借りた記号論の本は茉希名が読むには少し高度なもので、難解な用語が話の理解を拒んだ。しかしそのような煩わしさこそ茉希名が求めるもので、現実への厭悪を忘れさせてくれた。
茉希名が現在の団地に越してきたのは半年前のことである。稼ぎ頭を失ってなお散財を続けた母親が、ようやく経済的な危機と向き合い、高層マンションの一室から団地の一階へと一気に格下げしたのだ。
茉希名にとって部屋の質はどうでもいいものだった。しかし、引っ越しに伴って同居が始まった、もう一人の住人の存在がどうしても許せなかった。学校の休日は、仕事の関係からその住人も母親もいない、正に安息のひとときだった。
照明も点けぬ部屋の隅、その薄暗がりが細かい文字への集中を促してくれる。
記号論によれば、比較こそが意味の原理であり、人間の認識を支えているという。それはつまり、新しい記号が加わることで人間の認識は容易く変わり、常に変動し続けていることを指す。
差延? またこれだよ。つまりなんなの?
茉希名は思想家たちの難解な理論を正しく理解しているとは思っていない。しかし読むことで自分の常識が揺るがされるような、今の自分が脅かされるような感覚を心地よく感じていた。
夢中になって読書をしていた茉希名は、部屋に差し込む光がオレンジ色になっていることに気付いてはじめて時間の経過を意識した。時計を見ると十七時を指すところだった。
あと少しで奴らが帰ってくる。
途端に喉の渇きを覚え、本を置いて立ち上がると冷蔵庫へ向かった。麦茶をコップに注ぎその場で飲み干した。
とりあえず切りのいいとこまで読んじゃおう。その後で部屋に行けばいい。
開き癖のついた本を拾おうと屈んだ時、べぎゃり、と何かが潰れる重い音がした。
驚いて庭先を見た。赤黒い染みがコンクリートに拡がっていき、その中心には男性らしき人物が倒れ伏している。微かに動いているようだ。
茉希名は頭が真っ白になり、姿が良く見えるよう、うつ伏せの人物に少しずつ近づいていく。突然の状況に混乱していた。
流れる大量の血液の主は、最後の力を振り絞るかのようにゆっくりと首を動かして、茉希名の方へ顔を向けた。その顔面は鮮血に塗れていて、輪郭は割れた陶器のように崩れている。茉希名は息を呑んで立ち止まった。
カラン、と高音が響き、茉希名は身体を強張らせて顔を向けた。男性が右手から包丁を落としたようだ。
男性はもはや動かなくなり、右目だけが茉希名を見つめている。茉希名にはその瞳が黄色がかり、怪しく輝いているように見えた。しかしすぐに輝きは失われ、何も映さぬ黒に染まった。
あの目、私に何かをお願いするみたいだった。
激しい動悸を覚えながら、外の露台を降りて血の海へと近づいていく。うっすらと感じていた鉄の匂いが更に鼻をついた。
包丁が落下した付近にはまだ血が拡がっていない。柄の部分にしか血が付着していなかった。目の前で確認する男性の身なりは若く見えた。
この包丁を誰かに渡したかったのかな。
妄想とも思えるそんな考えが頭の中を支配した。落下の衝撃に耐えて、包丁を固く握り続ける。その状況を想像してしまい身震いした。
茉希名は震える手で包丁を拾うと、肩で息をしながら、力尽きた青年を見つめた。不思議と悍ましさは感じなかった。
その眼窩から礼でも述べるかのように、ころん、と眼球がこぼれ落ちた。
*
「田浦茉希名さんですね。いらっしゃい」
放課後、茉希名が部屋に入ると、穏やかそうな男性が机に向かって座っていた。男性は若く、長めの黒髪も似合っていて爽やかな印象だ。
男性は立ち上がって茉希名に近寄ると、ソファに座るよう促した。茉希名がその通りにすると、男性も向かいに設置されたソファへと腰を下ろした。
「僕は
「神成先生ですね。はじめまして。担任からここへ来るように言われました」
「先生だなんて困っちゃうな。学校の先生とは少し違うし。でも好きに呼んでくれて大丈夫ですよ」
安男は困ったような笑みを浮かべた。
純白の電灯が部屋を明るく照らしている。空調もよく効いていて清潔感のある部屋だ。
茉希名にとって、表札に相談室と書かれたこの部屋に来ることは気が重かった。話したいことなど無いからだ。
二日前に人が死ぬ所を目撃し、その時は動揺していた。しかし茉希名はその後、自分でも驚くほどショックを受けていないことに気付いた。
お父さんが自殺してからどっかおかしくなっちゃったのかな。
カウンセリングに来ていながら、茉希名はどこか上の空だった。
「先生方から大体の話は聞いています。大変だったね」
近くも遠くもない距離から安男が穏やかに話す。茉希名は目の前の男のことを、スクールカウンセラーなのだということしか知らなかった。
相談室には問題をもつ生徒が来て、悩み事を話す。茉希名がここに来るよう言われたとき、自分に問題があると言われたようで嫌だった。前に一度提案された時は断ったが、今日の担任の態度は強硬で断れなかった。
「自分のことでもないので、大丈夫です」
「そうなんだ。じゃあ学校のことで気になることでもあるかな?苦手な教科だったり、友達のことだったり、何でもいいんだ」
「強いて言えば、今何を話せばいいか困ってます」
「ふふ、面白いこと言うね。そうだ、お茶でも飲むかな?」
「いえ、結構です」
茉希名のそっけない態度にも安男は気にしない様子だ。実際は同居人が二人とも嫌いで仕方ないという悩みがあったが、話す気にはならなかった。
茉希名が部屋の中を眺めると、漫画や雑誌などがあり、お菓子も備えられているのが分かった。
そんな堅苦しいわけじゃないんだ。
「じゃあ、お先に僕の話でも聞いてもらおうかな。実家で飼ってる犬の話なんだけどね――」
安男の話は意外と面白く、警戒していた茉希名も少し笑ってしまった。茉希名が柔らかいソファに座り直して姿勢を整えると、ふと棚に入った将棋盤が見えた。折りたためるタイプの薄っぺらいものだ。
将棋盤を見た茉希名は笑みを浮かべていた表情を固め、体の動きを止めた。安男もそれに気付いて話をやめた。薄っぺらい将棋盤は、かつて父と一緒に遊んだ日々を茉希名に思い出させた。
「勉強があるので帰ります」
そう言ってすぐに席を立ち、部屋のドアに手を掛けた。
「またおいで」
安男は去っていく茉希名にそれだけ声をかけると、少し開いたままのスライドドアをただ見つめていた。
茉希名は荷物を置いたままの教室へと早歩きで向かう。
もはや先ほどまで会っていた人物のことなど頭になかった。ただ久しぶりに込み上げてきた悔しさと悲しさを、目の内に留めることで精一杯だった。
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