第24話 10 安男
「火曜の夜です。私は事前に茉希名と話して、妻に虐待について直接聞こうとしていたんです。どうしてそんなことをするのかと。妻にそれをあらかじめ伝えると、文句も言わずに受け入れていました。諦めたみたいな表情でした」
秋成が長袖のセーターで素早く涙を拭った。
「それで実際に話をさせてみると、それはもう、酷くて。言ってはいけない本音を次から次へと。本人は断罪されるような気持ちだったかもしれませんが、茉希名に聞かせるにはあまりに惨すぎた」
安男は詳細を聞きたい気もしたが黙って頷いた。
「それで私は頭に血が上って、妻を、その、妻に暴力を振るったんです。それでも妻は話を続けました。茉希名はもう限界とばかりに放心していて、それがもう見ていられなくて、余計に力がこもって」
「お義父さん。落ち着いて」
肩で呼吸をする秋成を見つめる。嫌な予感がしていた。
「すると茉希名がもういいよって。自分でやると言ったんです。床に倒れた妻の腹を踏んで。何度も何度も踏み荒らして。笑っていました。私は最初止めなかった。それが必要で、茉希名のためになると思ったんです。ただ、信じられないかもしれませんが、その目が途中で」
「黄色になっていた?」
秋成が目を丸くした。安男が握り拳をテーブルに叩きつけた。テーブルが揺れ、乗っていた調味料が転がり落ちた。
「どうしてこうなるんだ!」
立ち上がり咆哮した。意味も無くリビングの中を行っては戻る。溢れ出す自分の感情を制御できなかった。
「何か知ってるんですか? 教えて下さい」
歩き回る安男にすがりつくように秋成が服を掴んだ。
「前にここで自殺がありましたよね。茉希名さんはそこに居合わせた。その自殺した生徒が死ぬ直前、目が黄色くなっていたんです」
「な」
言葉を失って青ざめる秋成。その顔を見て安男はわずかに冷静さを取り戻した。もはや手遅れかもしれないと思った。
「それで、それでどうなったんですか」
「えと、ええと。やり過ぎだと思って止めようとしたんです。それでも茉希名は踏み続けた。でも気付いたら、そう。いつの間にか部屋に知らない若者がいたんです。私が話しかける前に茉希名に何かを飲ませて、すると茉希名はすぐに気絶しました。眠るように」
「……その若者とは?」
「髪が長くて美形で、歳は茉希名と同じくらいです。名前は聞きませんでした。その若者は、茉希名は特殊な病気になっているから彼氏の自分が助けると言いました。それで外に引きずっていこうとしたんです。テーブルに連絡先を置いて」
「それを信じたんですか?」
「もちろん疑いました。ふざけるな、一体何を飲ませたんだと。でも、私の目を見てこう言ったんです。お前にはこの子を守る資格なんか無いと」
「……」
「図星でした。自分で一番思っていたことだった。それでも言い返せなかった。呆然としている間に、彼は茉希名を連れて行きました」
「それで、連絡はついたんですか?」
「はい。送れば返ってきます。今はまだ家に帰すわけにはいかないって。黒目に戻って無事でいる写真も送られてきました。警察に通報してまた茉希名に嫌われるかと思うと……」
泣きそうな秋成の顔を視界にも入れず考える。情報を纏めるのに必死だった。
突然現れた彼氏を名乗る謎の人物。そして伝染する黄色い目、その暴力衝動。一体、何が原因で。
――唯の顔が浮かび上がった。部屋で本を読んでいた。何を読んでいるかを聞いてもはぐらかされた。
疫学総論。あれは唯の本だ。
買った覚えの無い本が本棚に並んでいた。疫学とは病気の感染に関わる要因が何かを探る学問だ。どんな人が、どんな経路で。唯はそれを探っていたのではないのか? 黄色い目が伝染する要因を。きっと幸くんや、茉希名さんを通して。もしかしたら、俺も。
確かな証拠は何も無い。しかし安男は訪れたその閃きに疑う余地は無いと思った。すぐに動く必要がある。
横で秋成が何やら話しているが安男の耳には届かない。あらゆる事件の中心に居る唯へと送るメッセージを考えていた。唯は安男からのメッセージを確認した上で無視しているのだと確信していた。
震える手でスマートフォンを操作する。時間はほとんどかからなかった。
「黄色い目はどうやって伝染するんだ? 俺の家で待ってる」
十秒とかからず返信が来た。
「すぐ行くよ」
深呼吸をしても落ち着きそうにない。全身の神経が興奮して安男の身体を攻撃しているようだった。
「――さん、神成さん。大丈夫ですか?」
目の前に秋成の心配そうな顔があった。
この男が茉希名さんを想う気持ちは本物だろう。だがそれが何だ? 茉希名さんが追い詰められる原因になったのはこの男だ。いくらそれを償おうとしてもその事実は消えない。
「画像なんか幾らでも加工できる。茉希名さんが本当に無事だと、本気でそう思ってるんですか?」
言葉を失った秋成を無視して玄関へと向かう。その背中に弱々しい声が届いた。
「どうすれば良かったんでしょう。どうすればあの子を救えた。何を間違っていた」
「私はあなたのカウンセリングに来たんじゃない。自分で考えて下さい」
外の空気が安男の頭を冷やした。それでも言い過ぎたとは思わなかった。暗闇の中を進んでいく。早歩きはすぐに駆け足になった。
俺が唯を止めるんだ。
ハンドルを強く握り締めた。ひと月の間にしっかりと情が移っていた。唯は安男の好みそのものだった。そのだらしない笑顔が好きだった。
エンジンが唸りを上げた。灰色の煙が噴き上がり、夜の闇に溶けていった。
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