第25話 11 安男

 俺が、親と話せなんて言ったから。

 いつもよりも強くアクセルが踏み込まれた。音楽をかける気にはならず、スポーツカーの激しいエンジン音がはっきりと安男の耳に届いていた。

 面接の際、安男は茉希名に包丁の事を聞けずに言い淀んだ。その際、言おうか迷っていたことが思わず口に出てしまった。虐待の疑いがある張本人と話すなどリスクが大きすぎる。気付いてはいたが、元気そうな茉希名を見ていると気が緩んで判断を誤ってしまった。

 安男の内心を代弁するように、エンジンが唸りを上げて夜の街を進んでいく。予想よりもずっと早い時間に自宅に到着した。


 唯はコーヒーが苦手だ。でももう構うもんか。

 使い慣れたコーヒーメーカーにお気に入りの豆を入れた。酒を飲めず、煙草も吸わない安男にとっての自宅での安らぎだった。

 入れたてのコーヒーに何も入れずにそのまま口に運ぶ。熱さに舌が焼ける感触さえ、今の自分に冷静さを齎してくれるアクセントだと思えた。


 ぴーんぽーん。

 ずっと待ち構えていたにも関わらず身体が跳ねた。二杯目だったコーヒーを流しに捨てて玄関に向かう。無表情のまま扉を開いた。


 安男の前では常に朗らかだった唯は、いまその面影も無い。安男の顔を一瞥すると再び俯いた。ただじっと家の前に立ち尽くしていた。


「いいよ。入って」


 唯は俯いたまま玄関に上がった。何も話すことなくゆっくりと歩いてくる。指定席と化していたソファの端には辿り着くことなく、何もない床に正座した。脚線が美しかったパンツが張って窮屈そうだ。暖房が届かずひんやりとした空気が漂っていた。


「そこじゃ話しにくい。ソファでいいよ」


 唯は上目遣いで安男を見ると一つ頷いた。いつものソファの端に縮こまるように座った。安男は少し距離を開けてソファの中心に座る。唯の苦しそうな顔をずっと見ていたくはなかった。


「茉希名さんは今どこに? 君は知ってるんだろう?」


「うん。知ってるよ。私の別荘に居る。体は元気だよ」


 予想外に流暢に話す唯に息を呑んだ。その言葉の意味を即座に理解した。


「心が傷付いてるんだな? 君が何かしたのか?」


「違うよ。親のせい。私はただ背中を押してあげただけ」


 簡潔な答えだが要領を得ない。安男は一つ深呼吸をした。意味は無さそうだった。


「黄色い目って何だ。何が起こってる。どうやって移るんだ。どうして君が」


 唯の暗い目が安男を捉えた。すぐに視線が伏せられた。安男は一瞬見たその瞳の冷たさに背筋が凍った。


「あれは、呪いだよ。不死の呪い。その前段階」


 安男はただ唯を見つめることしかできない。


「ねえ安男。どうしてこうなっちゃったのかな。私はどうすればいい? どうすれば兄さんを助けられるの。教えてよ」


 両手で顔を覆った唯の表情は伺い知れない。しかし上擦ったその声を聞けば容易に想像できた。その震える背中に右手が伸びた。しかし触れられる事無く戻された。


「ゆっくりでいい。全部話してくれ」


 嗚咽を漏らし始めた唯から視線を外して天井を見る。カフェインが効いて明瞭になってくる意識を煩わしく思った。


「安男はお話のプロでしょ。私が嘘をついてないか、ちゃんと見張っててね」


 やがて唯が顔を上げて悲しげに笑いかけた。安男はそれを黙って受け入れた。


「結論から言うよ。私は兄さんを愛してる。だから兄さんの呪いを治すための方法を探ってるの。その為の実験体が茉希名ちゃん。彼女を不老不死にしようとしてる」


 不老不死。聞き間違いじゃなかったのか。

 疑問が無限に湧き上がるも口から出ていこうとはしない。唯は沈黙する安男を見て話を続ける。


「どんな怪我をしても治る、歳を取らない。兄さんがそうなってからまだ十年くらいだけど、まず間違いない」


「兄さんっていうのは、茉希名さんを攫った男か? 長髪で美形だっていう」


「多分そう。いま茉希名ちゃんは私が奪い返してるけど、先に兄さんが攫った。兄さんは犠牲者を増やすことに反対なの。優しいから」


 安男は頭を抱えた。立て続けに生徒の親と話した疲労がここにきて影響を及ぼしていた。頭が重く、話がなかなか入ってこない。その内容の非常識さも大きな理由だった。


「さっき前段階って言ったな。不老不死になる為には何が必要なんだ」


「うん。よく聞いててね。まずは呪いを受けてる者とセックスするの。これで待機状態になる。それから親に触れる。それで目が黄色くなる。そして親を殺す。これで完成。これが私の研究成果」


 唯の言葉は淀みない。あまりにもすらすらと、何の心の揺れもなく言葉を紡いでいる。唯がそれを真実だと思っていることを、安男は認めざるを得なかった。


「これが分かるまで長かった。ほとんど諦めてた。本当に、どうしても目が黄色くならないの。まずそこから始めないといけなかった。兄さんは協力してくれないし」


「待て。待ってくれ。それなら茉希名さんは誰と性行為したって言うんだ? 君の兄さんが反対してるなら、そんな事しないだろ」


 唯の瞳が揺らいだ。安男の瞳を真っ直ぐ捉える。


「茉希名ちゃんの感染源は私。私が彼女とセックスした」


 訳が分からない。異常だ。こいつは異常だ。

 首を何度も横に振りながら後ずさりする。立ち上がって離れていく安男を見て唯が悲しげに俯いた。


「やっぱり安男もそう思うの。私が変だって。ただ愛した人が兄で、女の子も好きになっちゃって。安男。あなたの事も好きなの。本当に好きだった」


 そうだ。俺は唯と、していない。彼女の親の教えだからって拒まれていた。あれは。


「みんな大好きなの。それが何かおかしい? 私、本当はあなたに抱かれたかった。でもそれは無理なの。そうするとあなたに伝染しちゃう。あなたはいつか親を殺しちゃう。それが嫌だった」


 涙を溜める唯の顔は嘘をついているようには見えない。


「ねえ、私の事嫌いになった? それならそうと言って。私はあなたの元を去る。でも少しでも愛してるなら、忘れられないなら、私の傍に居て。私を助けてよ」


 唯は嘘つきだ。それは間違いない。今だってきっと俺は騙されている。だが、目の前で苦しんでいる人間を見捨てていいのか。こんなにも真剣に語る恋人を突き放していいのか。

 カウンセラーとしての信念が安男に語りかけていた。

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