第26話 12 安男
唯の視線から逃げ出して台所へ走った。空のティーカップに水を入れて口を濯いだ。一度では足りず、もう一度口を満たして勢いよく吐き出した。
ポリセクシャル、虚言癖、妄想症、サイコパス。そんなカテゴライズでは唯を捉えることはできない。明るく見える彼女は誰よりも深い闇を抱えていた。
一体俺は何を見てたんだ。
銀色に光るシンクに拳を叩きつけた。情けない音が鳴り、すぐにへこみが元に戻った。安男は物に当たる自分を恥じて少し冷静さを取り戻した。
振り向くと、唯はソファに座ったまま天井を見つめていた。高級マンションの洒落た照明も、広々とした純白の空間も何の意味も無い。高い金で借りているこの部屋は、今はただその空虚さを強調しているだけだった。
唯は今何を考えているのだろう。
「唯、君を助けるかどうか、まだ答えることは出来ない。唯が何をしたか、それは償えるものなのか、俺に教えてくれないか」
唯は上を向いていたその顔をゆっくりと安男に向けた。安男にはその顔が悲しそうに見えた。しかしもうその感覚を信じることはしなかった。
「韮崎くんの事、それが全ての始まりだった。もう知ってるでしょう? 私レイプされたの。高校生の男の子に。たまたま駅の近くで会ってね。本の話で盛り上がって、その本を貸して欲しいって言うから、私の家に寄ったの。それが間違いだった」
唯とは反対のソファの端に腰を下ろした。
「家に上げるつもりはなかった。でも彼が勝手に上がってきたの。きっと私の事が好きだったのね。見るからに顔が赤くなってて、私も少しだけ嬉しかった。しばらく普通に話してたんだけど、段々と彼の呼吸が荒くなっていって、それで……」
「その状況は分かった。話さなくてもいい。それからどうしたんだ?」
「私は傷付いた。ショックだった。穢されたと思った。レイプされたぐらいでそんなに気にすることかって、殴られるのと何が違うんだって思ってたけど、しっかり傷付いた。立ち直るのに時間がかかった」
言ってくれれば良かったのに。そんな浅い言葉はすぐに飲み込んだ。
「その時、私はもう呪いについて調べるのを諦めてたの。当事者の兄さんが全然協力してくれないから。呪いのキャリアが居なきゃ何も進まなかった」
「でも唯は、幸くんの家に行った。それで瞳がどうとか」
「そう。思い付いたの。実は私はもう感染してるんじゃないかって。ただ目が黄色くなる条件を満たしてないから次に行けないだけかもって。ほとんど賭けだったけどね。韮崎くんとお母さんが怯えて、後悔すればそれでいいと思ってた」
「唯、君は自分を実験体にしていたのか?」
「そうだよ。それ以外に居ないじゃん。私だって他人を巻き込むつもりなんて無かった。そしたら肝心の兄さんに嫌われるからね。でも、もう私に親は居ない。不老不死にはなれない。現実はこうなった」
「幸くんが、発症した」
「全部聞いたんだ。口の軽いお母さん。そうだよ。お母様から電話が来た時の、私の気持ちが分かる? 嬉しくて嬉しくて、泣きそうだった。呪いの研究に光明が見えた。それに、韮崎くんがこれから永遠に苦しむかと思うと笑いが止まらなかった。目が黄色くなると、殺人衝動が生まれるの。それに声が聞こえる。親を殺せ親を殺せって」
もう唯の顔を見ていたくない。心に反して安男は唯を見つめ続ける。
「まあ彼は結局、衝動に抵抗して自殺しちゃったけどね。つまらない最期だった。でもいくらでも次があった。もう分かってるよね、その日の夜にあなたに告白したの。韮崎くんの自殺に気付く前にって。なんでか分かる?」
「……いや、分からない」
「あなたがカウンセラーだから。韮崎くんに聞いてたの。あなたがカウンセリングの情報を全てパソコンでメモに纏めてるって。私はそれが見たかった。だって、親を殺したがるなんて歪んだ子供くらいでしょう? それもカウンセリングを受けるような問題を抱えた子。そういう子を利用したかった。どう? 軽蔑した?」
思わず机のパソコンに目を向けた。唯はいつも唐突に家を訪れた。安男はそんな唯を咎めながらも可愛く思っていた。
俺は、茉希名さんを守るどころか、そんな。
「少し休もっか。安男、くらくらしてるよ。私も疲れちゃった」
唯が安男の方ににじり寄って太股を叩いた。安男は揺れる視界の中、その脚を見つめる。何度も世話になった膝枕の感触を幻視した。
「がああ!」
野卑に叫んだ。声にもならない嗄れた音が部屋を揺らした。唯はびくりと硬直し、ゆっくりと安男から離れていく。
「唯、続きを話してくれ。俺は話が聞きたい」
唯は目を丸くして何度も頷いた。安男はそれを見て口角を上げた。
自分の罪なんてどうでもいい。これから茉希名さんをどうやって助けるか。それを考えるんだ。
「えと、……それで、自分が呪いを持ってると分かった私は茉希名ちゃんに近づいた。あの子は心にとても深い傷を負っていて、とっても素直で賢くて、つけ込みやすかった」
唯は目を閉じて呼吸を整えている。涙を堪えているかのように。
また演技だろうか。どうせ演技だろ。信じるなよ。
「趣味が合ったの。世の中に疑問を持ってた。何でこんなに息苦しく生きなきゃいけないんだって。彼女は本を読みながら、文字に隠されたそんな想いに共感してたんだと思う。それぐらい多感で、賢かった。だから私たちが愛し合うのは時間の問題だった」
「お前のせいで! お前が! お前が……」
部屋が静まり返った。暖房の音だけが聞こえていた。唯はただ安男を見つめている。安男には怯えているように見えた。
「続けて」
「……茉希名はなかなか親に触らなかった。あれだけ嫌ってたから当然だよね。だから私はカウンセリングを受けるように言ったの。あなたはきっと茉希名ちゃんを癒してくれると思ったから。予想通りだったね」
胸が重く、鈍く、突き刺されたように痛んだ。心をどこかへ投げ捨ててしまいたかった。
「それで、やっと親を殺してくれると思ったら、邪魔が入った。兄さんはすんでの所で茉希名ちゃんを助けた。私はそれを奪い返した。それで今だよ。私、悪いことしたかな? もう分かんないんだ」
俺はどうすればいい。何を考えればいい? 考える為に何を考える?
ソファに崩れ落ちた。ふかふかと柔らかい筈のソファは安男に何の安らぎも与えてはくれない。部屋を静寂が支配している。安男は遠い耳鳴りの音だけをただ聞いていた。
こういう時は原点に立ち返る。俺の原点は何だ。人を助けたい。そう思ったんだ。まず助けるべきは茉希名さんだ。
立ち上がって唯を見つめる。唯の顔には何の表情も浮かんでいなかった。
「茉希名さんのとこに連れて行け。まずはそれからだ」
唯が立ち上がって玄関へ向かう。安男は気付かれないように、台所から新品同然の牛刀を拾って鞄に入れた。
マンションの住民が利用する駐車場に到着した。唯は早歩きで見慣れないワゴン車の前まで歩いていく。安男は唯がそんな車を持っているとは知らなかったが、もはや何も聞かなかった。
「お前が運転しろ」
唯は何も言わずに運転席に乗り込んだ。安男は助手席に乗ると鞄を抱えて唯を見つめた。これ以上唯に何もさせたくない。その為なら。
安男は自分がまだ正気を保っていると信じていた。
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