第23話 9 安男
なんだ、まだこんな時間か。
韮崎家を出てすぐ、安男は好きでもない高所からの景色を眺めながら休憩していた。現在は十五時半だ。長かった体感時間とは違い、韮崎家での滞在は三十分にも満たなかった。それにしては強い疲労を感じていた。
唯は何かを隠している。それだけは分かる。幸くんの黄色い目、茉希名さんの失踪。必ず重要な事を知っているはずだ。あとは、あと何か無いか。手がかりになる事は。
安男は目を閉じて深呼吸した。何かを考えるには不必要な熱を、ひんやりとした外の空気で冷やしていく。手すりを離して歩き始めると、マンションの長い階段を味わうようにゆっくりと降りていった。
階段を降りきると道路へは向かわず、コンリートの庭へと向かっていく。茉希名の自宅がそこにあった。
ここで、幸くんが。
誰かに見られていないか辺りを確認した。休日の住宅街ながら閑散としており通行人は見当たらなかった。
庭先の広いコンクリートの隙間に雑草がまばらに生えている。大きな窓の外に低い露台があり、窓が開いていればすぐ庭に出られそうだ。窓にはカーテンがかかっており、照明も点いていない。中に人の気配は感じられなかった。
安男は家の外観をじろじろと見て回るのをやめ、マンションを離れていく。近くの喫茶店で、茉希名の両親と話をする際の作戦を練るつもりだった。
*
安男は田浦家が遠くに見える道路に車を停めた。道路脇の原っぱに寄せてあり邪魔にもならないと思った。コンビニで買ったカップコーヒーをストローで吸う。落ち着かない気分の安男には少し甘すぎると感じた。カーナビが示す時刻は十七時だ。用事が無ければ後はそこまで待つことはないと思った。
笠原から事前に聞いていた茉希名の両親の情報は職業ぐらいのものだった。義父の秋成は保険会社に勤めている。母の名美は美容師をしているということだった。
ほとんど情報が無いようなものだ。頑張れ安男。お前は話のプロだろ。
すでに安男は茉希名が虐待を受けていると確信を持っていた。虐待を受けて心が弱った茉希名が、図書館で唯と会うようになって元気を取り戻した。そう考えればこれまでの茉希名の行動に説明がつく。問題は、唯がどのような目的で茉希名に近づいたのかということだ。それはさっぱり分からなかった。
ずっと見据えていた田浦家の居室から光が漏れた。すでに外の明るさは失われていて、街灯も少ない。車のヘッドライトが無ければ目の前も見えないようだった。
安男は飲みかけのコーヒーを置いてサイドブレーキを下ろした。近くのコンビニへと車を置きに走った。
無記名の表札を横に見ながらインターホンを押した。暗くなってから家を訪れる無礼さも今の安男には障害にならなかった。義父か、母か。どちらが茉希名を傷付けているかは分からない。しかしそれを見過ごしている時点で同罪だと思っていた。安男は憤っていた。
家の中でチャイムが鳴るも、部屋からドタドタと音がするばかりで誰も出てこない。安男は二度目は押さずにただそのまま待っていた。やがて誰かがゆっくり近づいてくるのが分かった。
「はい」
「こんばんは、夜分にすみません。私はこういう者です」
顔を出した中年男性に名刺を渡す。男性は片手で扉を押さえたまま名刺を読んでいる。
「私は学校で茉希名さんのカウンセリングを担当しております。どうして茉希名さんがいなくなってしまったのか。お話を聞かせて頂けませんか」
男性は気弱そうな表情で安男の顔色を伺っている。
「どうぞ。今は妻がおりませんが」
「ありがとうございます」
開かれた扉に安堵しつつ中に入っていく。耳障りに軋みながら出口が閉ざされた。
「事前の連絡もせずに申し訳ありませんでした」
「大丈夫ですよ。急に一人になって淋しく思ってたものですから」
「それは……」
「少し無神経でしたね。
安男は食卓らしき場所の椅子に座った。木製の椅子はゴツゴツとしていて落ち着かない。
「狭い家でおもてなしもできませんが。義娘がお世話になっているのに」
「いえ、担当と言っても二回しか面接はできていません。茉希名さんは中々、頑なな所がありますから」
当たり障りの無い会話で秋成の出方を伺う。疲れたような笑顔の裏に何か隠しているのだろうか。
「本当に、その通りです。私も努力はしているんですが、ろくに話してはくれません。今も何度連絡をしても返信が無いんです。それもいつものことですが」
貼り付けたような笑みは癖になっているのだろうか。気弱そうでいて中々感情が読み取りづらいと思った。
「居場所に心当たりは無いんでしょうか。交際相手などご存知ではありませんか?」
「いえ、本当に、自分の事は何も教えてくれないもので」
安男は秋成の表情が一瞬固くなったように感じた。
「捜索願は出されていないと聞きました。一時的な家出だとお考えですか」
「はい。真面目な子ですから、溜まってしまったものもあるでしょう。少しでも息抜きになればと」
何を言ってるんだ。義娘が心配じゃないのか?
笑みを浮かべて話す秋成に怒りを覚えた。テーブルの下で拳を固く握りしめる。
……いや違う。そうじゃない。
安男は一つ大きく息を吐いた。動向を知っているから捜索願を出していないのだと事前に考えていた。
「失礼ですが、お母様はどちらに?」
「ああ、今は私の実家に行ってましてね。少し体調を崩してしまって」
「体調を? それは大変ですね。最近めっきり寒くなってきましたし」
「え? はい。そうですね」
茉希名さんの調子が良さそうだったことと関係があるのだろうか。虐待をしていたのは母親か? 情報が欲しい。
「体調を崩されたのは最近ですか? 長引いてたら大変だ」
「あの、ははは、そうですね」
「茉希名さんに関係あることは何でも知りたいんです。何のご病気ですか?」
「持病、持病なんです」
「虐待をしてたのは母親ですか? あなたですか?」
秋成は絶句した。安男は視界が真っ赤に染まっていた。
「彼女は脇腹を押さえていた。学校で、泣きそうな顔で。どうしてそんなへらへらしていられる。あの子が心配じゃないのか!」
立ち上がって秋成を見下ろした。秋成は安男を真っ直ぐ見返していた。
「……失礼しました。頭に血が上った。どうか知っていることがあれば教えて頂きたい」
再び椅子に腰を下ろした。静かで冷たい空気が流れていた。暖房から送られる温かい風も安男の元へは届かないようだった。
「……気付いて、いらしたんですね。私は気付きませんでした。ずっと長い間一緒に暮らしていたのに」
斜めを見上げながら話を始めた。感情の見えなかったその顔は悲哀に歪んでいた。
「虐待をしていたのは妻です。茉希名は、とうとう爆発したのかな。妻にやり返して、彼氏に連れて行かれました」
「詳しく、教えて頂けますか」
秋成は首を縦に振った。その右目から雫が一粒こぼれ落ちた。安男は酷く冷めた気持ちでそれを見ていた。
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