第19話 5 茉希名

 私の事、見守っててね。唯さん。

 机の上からクマのぬいぐるみを持ち上げてそっとキスをした。

 元の位置に戻すと、ぬいぐるみの黒い瞳がキラリと輝いた気がした。


 部屋の扉をゆっくりと開ける。すぐに食卓が見えて二人が座っているのが分かった。名美と秋成はテレビも点けずに茉希名を真っ直ぐ見据えている。二人の視線を浴びながら名美の正面に座った。どこか遠くで換気扇が回っている。茉希名は自分の鼓動の音が聞こえるようだった。


「それじゃあ、二人とも落ち着いて話をしようね」


 秋成の緊張した声を聞いても茉希名と名美は黙ったままだ。裸足の足元が冷めた空気をいっそう冷たく感じさせた。

 固い唾を嚥下した。一層口が渇いていくのを感じた。


「お母さんは、どうして私を虐めるんですか」


 考えていたものとは違う言葉が出た。一番聞きたいことだった。

 名美はいつもの強気な様子は影も無く、くたびれた顔をしている。茉希名にはそう見えた。


「茉希名。あなたは悪くないの。全部私が悪い」


 名美は両手で顔を覆った。何かを堪えるようにただ顔を押さえ、そのまま時が流れた。

 やがて名美は手を離し、茉希名を見つめた。


「最初はそんなつもりなかった。お父さんに浮気がバレた時ね、あなたの部屋に行ったでしょ? 私はあなたに何を言われるかって怯えてたの。悪いのは、全部私だから」


 ゆっくりと放たれた言葉は確実に茉希名の脳に吸収されていく。


「あなたはもう知ってるものと思ってた。私が浮気してたってお父さんから聞いてるものだと。でも違った。あの時あなたは知らなかったよね。……本当は謝ろうと思ってたの。でも知らないのが分かって、欲が出た」


 飲む唾も無いのに喉を動かす。喉に不快なしこりが溜まった気がした。


「あのままだったら、きっと茉希名はお父さんの元で暮らしてた。でも私はそれが嫌だったの。どうしても嫌だった。だからあなたとお父さんを会わせないようにして、あなたに浮気の事を隠した。その場凌ぎにしかならないのにね。気付いてた?」


「お母さんが何か悪いことをしたんだとは分かってた。でも浮気とまでは」


「そうなのね。……だからあなたがお父さんに会いに行こうとしたとき、反射的に手が伸びたの。絶対、身体を傷付けるつもりは無かった。本当よ。でも実際にはあなたの脇腹を掴んで肉を抓った。服の上からでもはっきり分かった」


 自分の呼吸が荒くなるのを感じる。両の拳を限界まで握りしめた。


「あの時の私はどうかしてた。そのまま離してあげるべきだった。……でも、心が弱ってたの。あなたの痛そうな顔を見ると、何故だか喜んでしまった。嬉しくなったの」


 目を閉じて心を閉ざす。今日は偶然上手く行きそうだった。


「名美さん」


「それからはもう夢中だった。怯えるあなたが言うことを聞くのが気持ち良くて、暴力を振るうのが気持ち良くて。あなたは震えてたね。布団の中に亀みたいに閉じ籠もって。私はそれをずーっと見てた。気が強いあなたが、私に怯えているのを」


「名美!」


 破裂音がして反射的に目を開けた。鬼のような形相の秋成が名美を睨んでいる。頬を張られた名美は怯みもせず、にやけた顔で話を続けた。


「あの時お父さんはシャワーを浴びてたの。気分を変えるためにね。しばらくして私が戻ると、あなたと話がしたいって言った。だから言ってやったの。茉希名はお父さんの事が嫌いだから、私と暮らしたいそうだよって」


 秋成がもう一度名美の頬をはたいた。名美はへらへらと笑っている。

 違う。こんなのが見たかったんじゃない。


「その時のお父さんったら、絶望を絵に描いたみたいな酷い顔でね。すぐに何も持たずに家を出て行ったの。その後は、どうだったかな。二度三度連絡が来て、気付けば自殺してた。すごくあっさりだったね」


 違う。こんなのが聞きたかったんじゃない。

 秋成が名美の髪を掴んで持ち上げた。横髪を吊られて首が傾く。痛んで癖の付いた茶髪が筋張った手に絡み付いている。

 縦に並んだ二つの瞳が茉希名を見つめていた。


「今でもあなたを傷付けてる理由だったよね。自分を傷付けるためなの。あなたを虐待してる時は、自分が最低だって分かる。生きてる価値の無いクズのクズだってね。それだけの理由」


 もうどうでもよくなってきた。

 全身が脱力し、背もたれにしなだれかかる。ただ宙空を見つめていた。


「あなたを抓り上げる時、いつもお酒を飲んでるでしょ? 実はあれ酔ってないの。あなたを抓るためにお酒を飲んでるの」


「おとうさーん。もういいよ」


 引っ張り上げていた名美の髪を秋成が離した。名美は椅子を巻き添えに床へと転がった。不格好に髪が広がり、死体のように虚ろだ。そのまま動こうともしない。


「もう、十分です。あとは自分でやります」


 食卓に沿って向かいへと回る。仰向けになり頬の肉が垂れた名美の顔は厚化粧の老人のようだった。

 すぐ足下にあった顔を踏もうとするが思い留まる。顔ではなく腹がいいと思った。


 ずるり。ずるり。

 肉が擦れる微かな音が繰り返し奏でられる。右足か、左足か。どちらで踏みつけているかも分からぬまま繰り返し名美の腹を押し潰す。何度も足を入れ替える内に、服がめくれ上がり肌が露出していく。弛みの付いた醜い皮が顔を晒した。


 子宮の上に踵を乗せてゆっくりと体重をかけていく。右の裸足に温かなころせ体温がじんわりと伝わってくる。前に、後ろに、ころせ嬲るころせように感触を味わう。中で内臓が動かされているおやをころせのが伝わってくる。


「茉希名さん」


 右足は楽しんコロせだので左足に入れ替える。冷えていた足が温められて気持ちいい。踵を使ってごりごりと肉ころせを押し潰す。こロせ誰かの呻き声がころせころせ聞こえた。


「茉希名、目が」


 ころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせおやをころせおやをコロセおやをころせおやをころせおやをころせころせころせころせころせころせころせころせおやをころせおやをころせおやをころせおやをころせおやをころせころせ死にたい


 意識が失われた。

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