第20話 6 茉希名

 強烈な光に瞼が焼かれている。不快さに目を開くと、白の照明が半開きの瞼の中を目敏く捉えて照りつけた。

 瞼を固く閉じて眼球を守る。闇の中に逃げても執拗に追ってくる光が鬱陶しかった。脱力している全身と同じように、瞼からも力を抜く。抵抗を諦めた瞳に対しては眩い照明も慈愛を見せるようだった。常に焼き付いているなら、いずれ気にならなくなる。


 見慣れた地下室の天井は酷く明るい。しかし部屋には仄暗い空気が漂い、消毒薬の人工的な匂いを運んでくる。所有者の陰鬱な性質が部屋にも反映されているようだった。

 これから始まる事を思うと気が滅入った。四肢と首に密着した枷は、もはや身体と同化している。苛立ちに任せて暴れようとするも、完璧に固定された幾つもの金属輪に対し為す術もない。無数に行われてきた幼稚な抵抗は、例の如く服従の証として痛みだけを残した。


 黒髪を後ろで纏めた女が台車を押して入ってきた。僅かしか動かせない首を傾ける。またしても女は同情するような視線を向けてきた。

 殺すぞ。

 ありったけの殺意を込めて睨みを返す。口を拘束しているゴム製の何かを目一杯噛み締めて。女は悲しげな顔をして目を逸らした。無力な奴隷が外部に影響を与えられる唯一の働きかけだった。


 眼鏡の男が巨大な台車を運んできた。その上には少年が全裸で横たわり、性器も隠さぬまま死んだように動かない。その顔は布で隠されていて伺うことが出来なかった。ただでさえ色白の肌が全身に照明を浴びて青白く発光しているようだ。

 女と男が協力して少年を手術台の上に乗せた。少年は身じろぎ一つしない。その胸は微かに上下している。少年はいつも眠っていた。


 女が何かの機器を周辺に設置し始めた。男がすぐ傍にやってきて、掛けられていた薄い布を乱雑に剥ぎ取った。顕わになった裸体にも興味を示さず、男はすぐに後ろを振り向いて手術に必要な道具を几帳面に並べ始めた。虚空を見つめてただその時を待つ。考えるべき事は何も無かった。


 始まりの気配を感じた。幾度となく行われる惨い仕打ちに対し、もはや早く終わることを期待するだけだった。眼球を動かして身体を確認する。機械のように、幾つもの人工的な管に接続されていた。やがて首から下の感覚が無くなる。意識は逆に鋭敏になるようだった。


 鋭利なメスが腹部に刺し込まれた。迷いの無い動きで真っ直ぐに肉が裂かれていく。痛みは無い。自分の内部が他者に蹂躙されていくのをただぼんやりと感じていた。


 今日は何を取るんだろう。

 頭をほんの少しだけ持ち上げる。赤とピンクのコントラストが自分の中で蠢いていた。臓物が光に照らされ、うねうねと喜びを主張している。今日は元気そうだなと思った。


 やがて男は、ぬめぬめと――を携えた臓器を持ち上げ――赤紫だろうその――は血に塗れ、まるで産まれたての赤――


「あああああああっ!」


 引き裂くような絶叫に飛び起きた。喉の痛みが、絶叫の主は茉希名自身だと教えてくれた。つい先ほどまで見ていた悪夢は、いつもの夢とは違い頭から消えてはくれない。悍ましい色や形が脳にこびり付き、我が物顔で記憶の中心に居座っている。まるでつい先ほどまで自分が解体されていたかのように。


「酷い夢を見たよね。水でも飲んだほうがいい」


「ひっ」


 男の声に硬直した。いつか見た長髪の青年が茉希名に同情の目を向けている。茉希名はただ震えていた。青年が歩いてきて、食事が乗った盆を茉希名の近くに置いた。


「僕が居ない方がいいかもとは思ったけど、放っておけなかった。ご飯はここに置いておくよ。トイレはそこの扉だ。こっちに音は聞こえないから」


 青年は話を終えると元居た場所に戻っていき、床に置いた本を再び読み始めた。茉希名は青年をしばらく見つめ続けていたが、やがて何も起こらない事に気付いた。

 青年が指差した方向へ顔を向ける。コンクリートの壁の中に茶色の扉が一つだけあった。


 茉希名は自分がどこに居るか分からない事に気付いた。徐々に呼吸を激しくしながら周囲を見回す。コンクリートを打ちっぱなしにした小屋のようだ。高い位置に窓があり、日光が差し込んでいる。トイレの他には頑丈そうな扉が一つだけあり、空気の一つも漏らさぬよう固く閉じられていた。


 なんで。なにが。だれなの。

 混乱する頭を意味も無く振る。はっと気が付いて茉希名は自分の身体を見回した。隅々まで見回しても、拘束具のようなものはどこにも付いていなかった。


 ご飯を食べるのはありえない。何か話す?

 とにかく状況を把握したかった。しかし何を聞けば良いかも分からない。茉希名は直前の記憶を思い起こそうとした。脳裏に、名美の弛んだ腹を何度も踏み潰す映像が蘇った。


「嫌! 何で。そんな」


 踵に伝わる柔らかな感触を覚えていた。涙が溢れて視界がぼやける。座っていられずにうろうろと歩き回り始めた。


「痛っ」


 足に衝撃があり、頭を抱えていた手を放した。床にパンと目玉焼きが散乱しているのが分かった。

 奥に居る青年が茉希名を見ている事に気付いた。青年は床に本を置いてゆっくりと歩いて来た。


「う、あ、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


「いいんだ全然構わない。無理もないよ。今掃除するから」


 茉希名は後ろも確認せずに後ずさった。すぐに壁に当たり、背中を擦りつけながら座り込んだ。

 青年は隅にあったロッカーから掃除用具を取り出して黙々と床を片付けていく。腕まくりをした裾から青白い肌が顔を覗かせていた。

 

 なんか、細くて綺麗な腕だな。

 青年の落ち着いた態度に、茉希名も少しずつ冷静になるのを感じていた。


 そう。お母さんを踏んでいたら何か声が聞こえて、何も考えられなくなって、それで……。

 記憶はそこで途切れていた。やはり重要な部分は覚えていない。茉希名は目の前の青年と話をする必要があると思った。少なくとも、いま傷付けられることはない。そう信じ込むことにした。

 青年はトイレがあるという扉と行き来して床の掃除を進めている。綺麗になったちり取りを持ってきたところで茉希名が口を開いた。


「あの、あなたは誰なんですか?」


「うん。僕はトオルって名前なんだ。何者かって言うと、難しいんだけどね」


 トオルは掃除用具を持って小屋の隅に運んでいく。茉希名は次の質問を頭の中で準備していた。


 ガチャコン。

 金属が擦れる、高く重い音が響いた。重厚そうな灰色の扉が外から開かれる。笑顔で姿を現したのは唯だった。


「にーいさんっ。どんな感じ?」


 驚くトオルに唯が抱きついて口づけをした。茉希名はそれをただ見つめていた。

 茉希名の脳が再び動き始めるのを待っているかのように、トオルと唯は長い間、唇を重ね続けた。


「あ、あ、あ」


 意味の無い音が茉希名の口から漏れ続ける。引き離そうとするトオルに構わず、唯は何度も兄を求め続けた。茉希名は瞬きもせずにそれを眺めていた。あらゆる意味の理解を脳が拒否していた。

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