第21話 7 茉希名
「いい加減にしろって。もう起きてるんだぞ」
「え?」
唯が今気付いたかのように茉希名へ顔を向けた。青ざめた茉希名を見て気まずそうな顔をするも、すぐにいつもの柔らかな笑顔になった。微笑んだままゆっくりと茉希名に近寄ってくる。茉希名は訳も分からずに、壁に沿って後ろへ下がっていく。やがて角に追い込まれて逃げ場を失った。
「まきなぁ。あなたは本当に可愛い子。大好きだよ。こんなに上手くいくなんて」
唯の細い指が茉希名の頬を撫でた。愛しくて仕方なかったはずの指は茉希名に鳥肌を立たせるのみだった。
「何も分からないでしょう。そうだよね。怖いよね。ごめんね」
唯は怯える茉希名に唇を重ねた。拒もうとする唇を、長い舌が押し開き茉希名の中へ侵入した。口腔の暗闇の中で舌が絡み合い唾液を交換していく。茉希名はそれを嘔吐する程に気持ち悪く感じた。反射的に腕が出て唯の両肩を押した。茉希名から離れた唯は、その驚いた表情をすぐに妖艶な笑みに変えた。
「ふふ。傷付いちゃったよね。でもすぐに良くなる。そんな事どうでも良くなっちゃうんだから。細かい事は兄さんから聞いて。私は仕事があるから」
震える茉希名の頬にキスをした。全身を伝わる寒気に、更に震えが大きくなった。
「お前、本当に……」
鋭い視線で見つめるトオルに唯は何も応えない。そのまま早歩きで灰色の扉へ向かっていく。すぐに姿が見えなくなった。
小屋の角にもたれかかって放心する茉希名をトオルがただ見つめている。トオルは荒く頭を掻くと、その場に座り込んで思考の海に沈んだ。
*
これが、失恋ってやつ? 違うか。
ようやく頭に浮かんだ言葉は極めて陳腐で下らないものだった。茉希名は自分の言葉の安っぽさに笑ってしまった。
初めよりも少し近い位置にトオルが座っている。茉希名が再び動き始めたことに気付いたようだが話しかけてはこない。
「あーびっくりした。トオルさんって唯さんのお兄さんなんですか? そうは見えないですけど」
軽い口調で話しかけられたトオルは息を呑んだ。悲しげな瞳が長い髪に隠された。
「事実だよ。若く見えるのには事情があってね。長い話になる」
「そうなんですね。あ、私お腹が空きました。もう一回ご飯もらってもいいですか?」
「うん。分かったよ。待ってて」
トオルはすぐに灰色の扉へ向かっていく。小屋の中には台所らしき場所は見当たらなかった。茉希名はトオルの後ろを気付かれないようについていく。トオルの細い腕が重厚な扉をゆっくりと開いた時、茉希名は駆け出して全身でトオルを突き飛ばした。小柄な身体が壁にぶつかり跳ね返る。重く鈍い音と共に床に倒れ伏した。
この人を殺せば、唯さんはもっと私を見てくれるかな。
受け身も取れずに倒れたトオルを見つめる。その頭部から一滴、また一滴と血が垂れていく。灰色の床が一部分だけ赤黒く染まっていく。
「……おや、は」
足元から唸るような声が聞こえて反射的に身を引いた。半開きだった扉に後頭部をぶつけた。
「親には、触るな。親に、さわ、な。おや、に」
ぶつぶつと呪詛を唱えるように呟くと、トオルは動かなくなった。
茉希名は急に怖くなり、後頭部の痛みにも構わず外に走り出した。小屋は小高い場所にあったようで、眼下には普段住んでいる街らしき風景が見えた。
誰か呼ばないと。唯さん。ダメだ。お母さん。無理だ。秋成さん。そうだ、秋成さんだ。
地味なジャージのポケットを急いで探る。どこを確かめても埃が入っているのみだった。茉希名はようやく自分が何も持っていないことに気付いた。服の他には唯から貰った腕時計だけ。下は裸足だった。呆然としてその場に立ち尽くした。助けてくれそうな人物はたった今自分で傷付けてしまっていた。
涙も出てこないままに何度も鼻をすすった。
どうしよう。私、ひとりぼっちだ。
周囲には小屋以外に建物は見当たらない。背の高い植物が繁茂していて
何かが土の地面を擦る音が聞こえた。空気を揺らす重い音は、普段なら意識もしない車のエンジン音だ。茉希名は向かってくるワゴン車に必死になって手を振った。最悪の場合、身体を車の前に出してまで止めてしまうつもりだった。
ワゴン車は茉希名のずっと前で止まり、運転席から人が降りてきた。
笑みを貼り付けたその女性は唯だった。
「まーきなさん。サプラーイズ。やっぱり逃げてきたの?」
茉希名にはもはや何が何だか分からなかった。自分の中の何かが壊れてしまった気がした。立ち尽くしてボロボロと涙をこぼす茉希名に唯が近づいていく。何も言わずにそっと抱き締めた。
「私、私。もう唯さんが分かりません。あなたは誰なんですか?」
「誰なんだろうね。今は茉希名の恋人。それじゃ駄目?」
「分かりません。それに私、唯さんのお兄さんを、もしかしたら殺しちゃったかも」
「うふふ。それなら大丈夫。兄さんはとーっても優しいの。絶対に許してくれる」
唯の胸に頬を押し付けている茉希名にはその表情が見えなかった。二人の会話が噛み合っていないことにさえ、茉希名は気付かなかった。
「私、唯さんを信じていいんですよね。ずっと一緒に居てくれますよね」
「うん。約束するよ。私たちはずーっと一緒」
二人自然と身体を離して見つめ合う。涙で視界が歪んだ茉希名には唯の顔が見えなかった。
「私、実は仕事辞めちゃったんだ。茉希名も一緒に遊ばない? 家にも帰り辛いでしょ」
「それは……あの、スマホだけ取りに帰りたいです」
「スマホってこれの事?」
唯が取り出したのは茉希名のスマートフォンだった。
「さすが唯さんですね」
もう何もかもどうでも良かった。自分を認めてくれる相手が一人だけ居れば、それだけで良かった。
「それじゃ行こうか。お金は結構あるんだ。いいとこ泊まっちゃおう」
「いいですね。行っちゃいましょう。この車も買ったんですか?」
「これは前から持ってた奴。あ、茉希名には持ってないって言ってたっけ。あはは。私嘘つきなんだ」
「あはは。クレタ人の意味の無い言明ですね。唯さん面白い」
二人を乗せた車は小屋を置き去りにして山道を走っていく。
それを見つめる一対の瞳があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます