第11話 茉希名 九

 玄関の扉をゆっくりと開いていく。音を消そうとしても、建て付けの悪い引き戸がギシギシと軋んで煩わしい。

 あまりにも幸福な時間を過ごし、茉希名は帰りの遅さなど考えてもいなかった。

 唯の部屋を出て暗くなった街を歩き、最終バスで帰宅した。


 やっぱりまだひりひりする。

 局部に違和感を覚えながらも、これから味わうかもしれない苦痛を思い、すぐに忘れた。

 茉希名は次のバスも無いほど遅い時間に帰る経験が無かった。いつも食事以外では部屋に引き籠もっているため、夜に二人がどう出てくるかを読めなかった。


 でも、抓られても、なんだか大丈夫な気がする。

 左の脇腹を右手で押さえた。唯に何度も何度も愛撫された、その感触が蘇った。

 虚ろだった心の中に、今は温かな光が満ちていた。


「あ、おかえり。遅かったね」


 リビングへの扉を開けると、いつもの張り付けたような笑みで秋成が茉希名を迎えた。食卓で晩酌をしているらしいその対面には名美が座っている。


「おかえり」


「た、ただいま」


 知らぬ間に荒くなっていた呼吸を整える。茉希名を見る名美の顔はすでに赤くなっている。名美が秋成の前で酒を飲んでいるところを茉希名は初めて見た。

 まさか、二人で。

 想像もしたくない悪夢が茉希名の脳裏によぎった。


「友達の家に行ってたのかい。良かったらこっちで話そう」


「そうね。話しましょう。もうご飯は食べた?」


「えと、まだ食べてない、けど」


 茉希名の内心とは裏腹に、二人の口調は穏やかそのものだ。いつもなら断っているものの、かなりの空腹を覚えていた。最終バスにも焦って乗るほど時間が無かった。


 茉希名の言葉を聞くと、名美がすぐに台所に向かって鍋を温め始めた。特に待つこともなく、カレーライスが目の前に置かれた。


「ゆっくり食べるといいよ」


 秋成の言葉に、ほんの少しだけ首を動かす。

 早い時間に作っていたのか、具材がルーによく馴染んでいた。茉希名はいつもと同様に素早く腹に収めてしまうが、今夜の食事だけは美味しく感じていた。


「今日のカレー美味しかったでしょ。おかわりいる?」


 微笑む名美に戸惑いながら、かぶりを振って答えた。

 酒が入った名美は理性を失うのだと茉希名は思っていた。父の公希が生きていたとき、名美は酒を飲まなかった。怒りっぽくなるため控えていたのだと想像していた。


 そんなにこの人が好きなのかな。

 秋成に目撃された日から、名美の折檻は無くなっていた。あの時、彼が覗いていたというのは勘違いで、名美を諫めてくれたのだとしたら。

 気になるも茉希名が自分から口に出すことなどできなかった。


「茉希名、この前のテスト、頑張ったね」


「ちょっと名美さん、成績の話はしないでって」


 慌てて手で口を押さえる名美。それを見て秋成が笑っている。


 やっぱり二人で何か話したんだ。もしかして、このままなら上手くやっていけるかも。


 その言葉が浮かんだ瞬間、茉希名は動きを止めた。降って湧いた自分の考えに茉希名自身が驚いていた。

 二人が続けて何かを話しかけてくるも、頭に入らない。

 上手くやっていく。ただそれだけは絶対に駄目なのだと感じていた。

 こいつらは敵。敵なんだ。


「あの、私宿題あるから」


 立ち上がると椅子も戻さずに部屋へ向かう。

 悲しげな二人の顔が印象に残った。


 私、やっぱりどこかおかしくなってるのかな。

 近頃、茉希名は自分でも情緒が不安定になっているのを感じていた。

 ベッドに座り、唯に貰ってきたクマのぬいぐるみを取り出して胸に抱いた。不要な感情を唯に吸い取って貰える気がした。



*



「茉希名さ、一回カウンセリング受けてみたら?」


「カウンセリングって、あの神成って人の?」


「そうそう。別に怖いもんじゃないって。向こうは説教みたいなのを一番避けてるからね。茉希名が自分で思ってることを引き出すのが仕事なの」


 唯と関係を持ってから四日経ち、土曜日を迎えていた。

 唯は料理をしないというので、適当に食べ物を買ってきて二人で食べた。


「でも、私は唯さんが居れば」


「いい子いい子。そう言ってくれるのは嬉しいけど、私は専門家じゃないからね。まあ、気が向いたらでいいよ」


 唯は優しく茉希名の頭を撫でている。黙って受け入れる茉希名は嬉しさと不満が半々だった。


「そういえば、唯さんの両親はどうなんですか? あと兄弟とか」


「……昔は居たよ。今は誰も居ない。茉希名と同じで、親はあんまり好きじゃないと思ってた」


「……そうなんですね。唯さん明るいから、そういうこと無いと思ってました」


「そんなことないよ。私だって色々ある。あーあ、片親でも生きてたらな。もっと楽できたのに」


 そう話す唯の笑顔はいつもの自然なものとは違い、作られたものに見えた。

 茉希名は唯に近づくと、ついばむように何度も頬に口づけした。

 唯の作り笑いが嫌で、壊してしまいたかった。


「ちょ、ちょ、ちょっと待って。ふふ、茉希名がこんなにエッチだなんて思わなかった。人は見かけによらないね」


「唯さんが可愛いのが悪いんですよ。……今日は夜ダメなんですよね。じゃあもう少し、近くに居させて下さい」


「分かった。おいで。ドロドロに溶かしてあげよう」


 あぐらに組み替えた唯の脚に乗り、身体を小さくしてその柔らかな双球に顔を埋める。唯の言った通り、茉希名の中の何かが溶かされていく気がした――。


 しばらく何でもない会話をした後、二人で玄関先に立った。


「じゃあまたね。それ、嫌だったら着けなくていいからね」


「大丈夫です。気に入りました。じゃあまた」


 二人は見つめ合うと、少しだけ長いキスをして、後ろに振り返った。


 十月に入り、外はすでに暖かみを失い始めていた。吹く風は乾いていて、肌を冷たくはたいては去って行く。歩く人々を急かしているようだ。

 まだ日も暮れていないが、茉希名はこれ以上一緒に居ると自分を制御できる気がしなかった。


 右の手首に着けられた腕時計を眺める。地味すぎず、派手すぎない、唯らしいチョイスだと感じていた。普段は装飾品など邪魔に感じて一切着けなかったが、唯に貰った物は何でも嬉しかった。


 駅まで走って行っちゃおうか。また変な人が出ても嫌だし、遠回りしていこう。

 大きい歩幅で、跳ねるようにコンクリートを駆けていく。

 こんなスニーカーだとダサいかな。今度可愛い靴を買おう。


 暖まっていく身体を、吹き付ける風が心地よく冷やす。背中を押す追い風が、禁断であるはずの二人の恋を応援しているようだ。

 着け慣れていない腕時計が、カチャカチャと喜ぶように鳴っていた。

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