第10話 茉希名 八

 自分では冷静になっていると思いつつ、茉希名はその場で唯に発するべき言葉を見つけられなかった。

 素直に頷くにしては考えるべき事が多すぎた。


 何も言葉を発しないまま、茉希名はゆっくりと帰り支度を進めていく。考える時間が欲しかった。

 唯はその様子をじっと見つめている。茉希名はちらちらと唯の表情を確認するが、そこから唯の感情は読み取れなかった。


「あの、また明日学校で」


 茉希名が話すと、唯が薄く微笑んだ。ほっとした気分になり、茉希名も微笑む。そのまま唯の部屋を静かに後にした。

 部屋には手を付けられていないペットボトルの緑茶がそのまま残されていた。


 駅近くのマンションから茉希名の家に向かうにはバスに乗るのが手っ取り早い。

 駅裏の路地を歩いて停留所へ向かっていく。以前は商店街だったのか、すでに潰れた店の残骸達がもの寂しい。


 私はどうしたらいいんだろう。

 下を向いて歩きながら物思いに沈んだ。しかし浮かぶのは漠然とした問いばかりで、生産的なことなどまだ何も考えられなかった。


「ごめん、田浦さんだよね。話を聞いて欲しい」


 唐突に話しかけられ硬直しつつも顔を向けた。

 肩まで黒髪を伸ばした、人形のように美しい人物が立っていた。


「いま唯の家から出てきた所を見た。何もされてないよね?」


 性別が分かりづらいが声からすれば男性のようだ。同年代ぐらいに若く見えた。

 茉希名はただ目を見開いてその人物を見つめていた。


「ごめん。怖いよね。でも唯と一緒に居るともっと怖いことが起こる。関わらない方がいい。何かあったらすぐ警察に行くんだ。それと」


 何が何だか分からず怖くなって、茉希名は走って逃げ出した。話はほとんど頭に入らなかった。


 すぐ近くにあった駅に入り、ようやく後ろを振り返った。誰もついてきてはいなかった。

 呼吸を激しくしたまま前に向き直り、構内を走って抜けていく。駅の停留所で待っている気にはならず、一つ分だけ余計に先回りすることにした。


 ――バスに乗り、茉希名は唯とのこれからについて、考えているようで何も考えられないまま家に着いた。

 茉希名が自分のベッドに腰掛けると、ようやく感情らしいものが押し寄せてきた。

 唯さんが私の事好きだなんて。でも唯さんが怖いことをする? 何のこと?

 喜びと不安と、幾つものよく分からない感情がごちゃまぜになっていた。茉希名は自分が今どんな表情をしているか分からなかった。


 急に話しかけてきた、男性らしき人物のことを思い返した。整いすぎた顔立ちと病的に白い肌がはっきりと目に焼き付いていた。


 もやもやとした気分に身悶えし、ベッドの上を転げ回った。しばらくそうした後、茉希名はごろごろと転がるのをやめ、天井を見上げた。

 やっぱり唯さんを信じよう。きっとあの変な人は唯さんのストーカーか何かだ。自分以外を近づけたくないだけだ。唯さんは私を助けてくれるんだ。


 でも、私の知ってる恋愛とは違うことが多すぎる。恋愛なんてセックスしたいだけの男女がとりあえず近くのマシな奴を捕まえて交尾するだけじゃなかったのか。禁断の恋愛なんてドラマの中だけだと思ってた。うじうじしてないでさっさとくっつけよって思ってた。

 唯さんは二十四歳。未成年はやばいかも。学校の職員と生徒。ダメかも。何より女同士。もう分かんない。

 とにかく色々と問題が多すぎる。いや、別にいいのかなあ。でもなあ。

 茉希名は自分の辛い経験を話していたことなどすっかり忘れていた。


 よそ行きのお気に入りを着たままだったことに気付き、家着に着替えていく。途中で自分のショーツに染みができているのを発見した。

 茉希名の脳裏に、先ほど見た唯の姿が浮かび上がった。唯が腹部にキスをしたとき。告白された時の上気した顔。

 あの顔はそういうことだったのかな。

 知らぬ間に自分の呼吸が大きくなっていることに気付いた。先に感じた疼きが再生され熱を持ちはじめた。


 今あいつらは家にいない。まだ帰っても来ない。

 どうにも落ち着かない今の気分を鎮めたかった。

 上だけジャージの状態で部屋の電気を消す。部屋がわずかに暗くなった。

 茉希名は勢いよくベッドに飛び込んだ。床の一張羅もそのままに、自分の身体をまさぐりはじめた。



*



「ねえ、今日も図書館行くの?」


「うん。今日は特に絶対行かないと」


「そっか。分かった」


 放課後、いつになくしおらしい要を疑問に思いつつも、すぐに教室を後にする。逸る気持ちを抑えられず、自然と早足になっていた。


 図書館に入ろうとした茉希名は、受付に唯が座っていないことに気付いた。透明な自動ドア越しに見えるのは、校内でたまに見かける年配の女性教諭だ。


 今日はいないのかな。どうして。

 悲しみにも似た不安が胸を襲った。館内を探しても居ない場合のことは考えたくなかった。


「まーきなさーん」


 背後から小さい声がして振り向いた。唯が建物の陰からわずかに顔を出して手招きしていた。茉希名はすぐさま唯の元へと駆けていく。


「もー、びっくりしました」


「ごめんごめん。用事あるって代わってもらったから隠れてたんだ。あ、連絡すれば良かったね」


「そうですよ。いい加減スマホに慣れてください」


 軽い調子で話しながらも、茉希名は内心抱きついてしまいたかった。


「もし良ければ今日もウチに来る? ゆっくり話せると思うけど」


「行きたいです。あ、そういえば一緒に居るの見られるとマズいですか? 家に行くなら少し間隔空けて歩きましょうか」


「あー、うん。確かに。じゃあ後ろ付いてきてね」


 光説高校から駅裏の唯の部屋まで行くのにバスを利用する必要はない。唯が先陣を切り、早歩きで高校の敷地を出て行った。少し時間を空けて茉希名も同じ道を進んだ。


 唯の背中を遠くに見ながら、茉希名の足取りは軽かった。

 ここまでの段取りの悪さなど気にならなかった。賢い唯の少し抜けた部分が見られたと喜んですらいた。


 唯は時折、何気なく周囲を見回す振りをして後方の茉希名に視線を送ってくる。

 その可愛らしいお茶目さが自分だけに向けられていると思うと、茉希名は堪らなくなり声を漏らして笑ってしまうのだった。

 昨日の衝撃的な告白への返事はすでに決まっていた。


 唯の部屋の前に立つと、インターホンを押すまでもなく扉が開かれた。


「お邪魔します」


 一歩進むと、昨日と同じ心地よい花の香りが茉希名の全身を包んだ。


「何か飲む? お茶でいい?」


 ペットボトルの緑茶を手に持って唯が台所から問いかけた。

 茉希名は靴を脱いでそのまま玄関に立ち尽くしていた。

 唯は立ったままの茉希名を怪訝な顔で見ると、その真剣な表情に気付いて動きを止めた。


「私、唯さんのことが大好きです。大好きなんです」


 部屋に入ってすぐに言おうと、ずっと考えていた台詞をそのまま口にした。

 予定通りだったにもかかわらず、茉希名の右目から一粒の涙がこぼれ落ちた。


 唯は緑茶を取り落とすと茉希名の元へ歩いてくる。少し屈んで茉希名の長い前髪をかき分けた。

 鼻が触れあうほどの近い距離で見つめ合う。もう茉希名は泣かなかった。


「私の全部、唯さんにあげます」


 近くで見つめる唯の表情は何故か一瞬悲しげに見えた。しかしすぐにいつもの柔らかな微笑みをたたえた。


「もう戻れないよ」


 唯はゆっくり、ゆっくりと茉希名に顔を近づけてくる。

 目をつぶって唇に意識を集中させる。

 茉希名は顎に柔らかいものが触れたことに気付いて目を開けた。


「泣いてたから。可哀想で」


 茉希名が自分の右頬に触れると涙の残滓が手に付いた。

 何かを考える前に茉希名は唯の唇へキスをしていた。

 そのまま何度も何度も場所を変えては接吻を重ねる。薄い化粧を全て剥がしてしまうつもりだった。


 突然強い力で茉希名の両頬が押さえられた。柔らかな肉が押し潰され、唇が突出する。

 唯はそのまま茉希名の唇に強く口を押し付けた。形の変わった下唇が唯の中に入り、卑猥な音を出して吸われていく。

 茉希名は自分の中のあらゆるものが解放されていく気がした。


 少女の青い性欲は、いつまでもずっと消えることは無かった。

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