第9話 茉希名 七
唯のマンションに辿り着く前に、茉希名の涙はすでに引いていた。
ちゃんと伝えたい。自分の辛い話を聞いてもらいたい。
この人に近くで寄り添っていてほしいと、茉希名は初めて感じていた。そのために泣いていては駄目だと、使命感にも似た感情を覚えていた。
朝にも訪れたマンスリーマンションに到着した。唯に手を引かれるまま、茉希名は黙って歩いていく。
部屋に入ると、唯は午前中と同じクッションに茉希名を座らせた。茉希名は繋いだままだった手を素直に離した。
冷蔵庫に入っていたのか、唯はペットボトルの緑茶とコップを持ってきて茉希名の前に置いた。
「いつでもどうぞ」
対面の唯が軽い調子で話した。
茉希名は深呼吸をすると、頭の中で準備していた内容を口に出し始めた。
「私の父は一年ぐらい前に自殺しました。母の不倫が分かってからすぐのことでした。ある日学校から帰ると、普段はもっと遅いはずの父が先に帰ってたんです。その顔はなんだかイライラしているようで、いつも穏やかな父には珍しいな、と思ってました」
一つ呼吸を置いた茉希名を、唯が無言で見つめる。
「その日母は何故だか知らないけど帰りが遅くて。私はご飯を食べた後は普通に部屋にいて。母が帰ってきたな、って思ったら、すぐに口論が始まったんです。母はたまに大きい声を出すけど、優しい人だと思ってました。私は滅多にない親の喧嘩が怖くて、ずっと部屋にいたんです。話の中身は聞いてないけど、母が何か悪いことをしたんだっていうのは分かりました」
唯は黙って頷いている。
「口論が終わって静かになったら、母が私の部屋に来て、お父さんとは少し離れることになった、って言うんです。私はその時点では母が不倫したとは知らなかったけど、もう高校生だったから薄々察してはいました。だから、おかしいな、って思ったんです。悪いことをしたはずのお母さんのとこに私が残って、お父さんだけ家を出て行くのが」
呼吸を荒げはじめた茉希名の手を唯が上から握った。
「私は、お父さんと話す、って言いました。何が起こったのかを聞きたかったんです。でもそれを聞いたお母さんは無表情のまま何も言いませんでした。私の部屋の扉のとこで通せんぼするみたいに立って。その時やっと、お母さんの様子がいつもと違うことに気付いたんです。顔がすごく赤くて、でも表情が無くて、それが、すごく、不自然で……」
言葉が出なくなった茉希名のそばに、気付けば唯が寄り添っていた。
目をつぶっている茉希名は柔らかい体温を背中に感じた。少しの間そのまま呼吸を落ち着けた。
何度か深呼吸をして再び話し始めた。
「すごく、怖かったんです。母は扉を閉めると、ゆっくり私の方に歩いてきて、お父さんはもう出て行った、って言いました。私はそれが嘘だと思ったから、お母さんを避けて部屋を出て行こうとしたんです。……そしたらすれ違う私を止めようとしたのか、お母さんの手が私の服を掴んだんです。……それに、掴んだのは服だけじゃなくて私の体も挟まっててそれがすごくいたくて」
茉希名に優しく触れていた唯の腕が、その小さい身体を覆い隠すように強く抱きしめた。
瞼に固く封じられていた茉希名の涙が溢れ出す。はじめ雫だったものはやがて川のように姿を変え、唯の腕を濡らしていった。
もがくように動いた茉希名に気付いて、唯が腕を離した。茉希名は座ったまま唯の方を向いて、自分から勢いよく抱きついた。
突然の衝撃に唯は肺から息を漏らした。
そのまま何も言わずに茉希名を優しく抱き締め続けていた。
「――ありがとうございます。でもまだ、ちゃんと手を握っててね」
やがて茉希名が自分から身体を離した。唯は少し驚いた顔をしたがすぐに表情を戻した。向かい合って互いの右手と左手の指をしっかりと絡ませ合った。
目の前にある唯の顔を見られずに、茉希名は俯いたまま口を開いた。
「母が掴んだ脇腹が痛くて、逃げられませんでした。母はその手をもっと掴みやすい形に変えて、もう一度握りました。それで苦しむ私に向かって何度も言うんです。言うことを聞け、言うことを聞け、言うことを聞けって。ホントはもっと何か言ってたかもしれないけど、よく分かりません。私は手を離してもらおうと必死になって暴れました。でも母の方が力が強くて、気付いたらベッドの上に飛ばされてたんです。そこで目を開けると、表情が無い母の顔が全部吊り上がるみたいになって……」
細い指が茉希名を離さぬように握り込まれた。
「……私の部屋にある物を手当たり次第投げつけてきたんです。固い物はそんなに無かった気がするけど、その人間じゃなくなったみたいな母が怖くて、すぐに布団を被って閉じ籠もりました。その後のことは分かりません。布団を上げて母が居たらと思うと出られなかった。その後は父がいなくなっただけの生活が何日か続いて、母が不倫していたこと、父が死んだことを聞かされました。これで終わりです」
肩で呼吸をする茉希名を唯が見つめ続けている。繋ぎ合った手は未だに互いを離していない。
「あの、唯さんもう大丈夫です」
照れたように話す茉希名の表情を写したかのように、唯も下を向いて手を離した。
言いたかったことを言ってしまい、茉希名は気分がすっきりとしていた。
「そういえば、ここ一週間は無いんですけど、たまに母が酒を飲んでは私の脇腹を抓るんです。成績が悪かったり、変な本を読んでたり、多分何でもいいのかな。高校を卒業するまで我慢すればいいと思ってたけど、唯さんには話したくて。ほら、こんな風に」
早口で話し終えると、インナーの裾を持ち上げて茉希名が腹部を露出した。白く柔らかそうな肉の中に、青黒いシミのような部分があった。
ずっと下を向いて話していた茉希名は、ようやく唯の表情を確認した。
唯は驚愕の表情を浮かべて、茉希名の色白な腹部を凝視していた。
今も虐待されてるんだって驚かせちゃったかな。
茉希名は戸惑って、服を上げたまま次の言葉を探した。
腹部を見つめている唯の顔が、ゆっくりとその視線の先に近づいていく。その頭部が斜めに傾いた。
――茉希名が何を言う暇もなく、唯は、へその下にそっと口づけをした。
息を呑み何も考えられなくなる。
茉希名は、唯の頭で見えない下半身がわずかに疼くのを感じた。
その場で固まりながら、掴んでいたインナーを手離した。唯の頭部が淡いピンクのブラウスに覆われ、茉希名の下腹部に隠れた。
唯が裾の下からゆっくりと頭を抜いていく。荒くなった呼吸が下腹部を刺激し、茉希名は微かに声を漏らした。
身を捩らせる茉希名を見ることもなく、唯は腕を使ってゆっくりと後退していく。大きく頭を下げて顔を隠すかのように。
自分の呼吸が速まっていくのを感じる茉希名だったが、その理由は分からなかった。
元々座っていた場所より後ろまで下がり、唯がようやくその顔を上げた。
頬を上気させつつ泣きそうにも見えるその表情は、茉希名が見たことのないものだった。
「茉希名。私貴方のことが好きになっちゃった」
懇願するように放たれたその言葉を聞いて、茉希名は何故か自分が冷静になっていくのを感じた。
ああ、私唯さんのことが好きだったんだ。
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