第8話 茉希名 六
「結局、私はこの
「分節って、シニフィエとはどう違うんですか?」
「シニフィエが意味になった結果だとしたら、分節はそれの原理だね。世界を切り分けて認知できるようにするっていう」
「なんだか定義が広すぎる気がします」
「そうだね。実際人によって使われ方はまちまちだけど、この本に関してはそれでいいと思うよ」
唯が車を持っていないと話したため、二人は日曜の朝早くから駅で待ち合わせをした。駅裏を通り、茉希名は近くにある唯の部屋に入れてもらった。
図書館で誘われた週の土日は唯が忙しかったため、一週間空けることになった。
クッションに座り、茉希名は教えてもらった本をまだ読めていないと話した。すると唯はすぐに本棚から同じ本を持ってきて、そのまま勉強会が始まった。
「男/女って、こんな風に分けられて丸をつけろって奴があるでしょ、名前とか書くときに。この真ん中にある区切りが、分節という作戦が実行された結果生まれるの。これを取ってしまえば、ジェンダーが混乱してくる」
「……そうなんでしょうか。いくら比較が意味になるって言っても、現実に存在するものを無視しすぎな気がします」
「よく理解してるね。そういう議論も多い。でもソシュール以前ではそういう発想すらなかったんだ」
頭の中でゆっくりと整理してから茉希名が発言する。唯はそれを優しげな表情で静かに待っていた。
要と居るときはこうはならないな。
唯と話す時、自然と茉希名の表現は硬くなる。茉希名はそれが恥ずかしくも嬉しかった。頭を使って誰かと思考をぶつけ合う。その初めての体験に興奮を覚えていた。
「分節って、平たく言えば、細かく切って食べやすい大きさにしたいって感じかな。それによってそれぞれの素材の味もよく分かるようになる。そういう人間の認知の仕組みを分節って呼べるんだと思う。それが当たり前すぎて誰も気付かなかったんだ」
「……うーん、なんだか騙されてる気分になってきました。唯さんって口が上手いから」
「はは。結局は自分で文字と向き合いながら、頭の中で試行錯誤するしかないからね。なんか食べ物の話したらお腹空いちゃった。どっか食べに行く?」
唯の言葉を認識すると、茉希名も空腹を覚えていることに気付いた。
唯さんと居ると時間が過ぎるのが早いな。
「そうですね。私もお腹空きました」
「近くにおすすめの喫茶店があるからそこに行こうか」
ずっと脚を畳んで座っていた茉希名は、立ち上がってから足の疲労に気付いた。よろける茉希名の肩を唯の両手が掴む。
「もう、大丈夫? おんぶしてあげようか?」
「あの、大丈夫です。ありがとうございます」
顔を赤くする茉希名を、唯の優しげな眼差しが見つめていた。
*
「きれいなお店ですね。こういう所久しぶりに来ました」
「……そう。好きなの頼んでいいよ。おすすめはカツサンドかな」
「じゃあそれにします。アイスコーヒーもいいですか?」
「もちろん。じゃあ注文するね」
丁度いい気温の街並を歩き、こぢんまりとした店に入った。
日曜ではあるが、店内にはあまり人が居ない。昼食にしては少し遅い時間だった。
古風な雰囲気がありつつも可愛らしい小物が飾られており、店主の趣味を感じさせた。
休日に会う唯は、いつもより少しだけ強めのメイクが華やかだ。茉希名は店内に流れる静謐なクラシックも耳に入らず、どこか落ち着かない気分だった。
しばらくすると、テーブルに飲み物が二つ置かれた。茉希名が頼んだアイスコーヒーと唯のオレンジジュースだ。
唯がそれぞれの飲み物を互いの目前に運んだ。茉希名はシロップなどが乗った小皿を自分の前に持ってきた。
「よくそんなの飲めるね。私の方が子供みたい」
笑う唯だったが、茉希名にはあまり面白いと思えなかった。もやもやとした気分になったが、その理由は分からなかった。
やがてカツサンドが二人の前に置かれた。唯が豪快にかぶりついたので、茉希名も同じように両手で持ってかぶりついた。
柔らかい豚肉は旨みが強く、ソースの酸味と少なめのキャベツが、脂のしつこさを消しつつ調和していた。
唯との会話もそこそこに、茉希名は手に持ったご馳走に次々とかぶりついていく。こんなに美味しいと感じる食事は久しぶりだった。
「気に入ってもらえて良かった」
茉希名が最後の一切れを口にすると、対面の唯が目を細めていた。唯の皿にはまだカツサンドが一つ残っていた。
「こっちのも食べる?」
段々と顔に熱を感じてきた茉希名は黙って首を横に振った。実際はまだ少し空腹を感じていた。
美味しかったけど、おしゃべりするには向かなかったな。
手に持って大きくかぶりつくカツサンドは、会話しながら少しずつ食べるのに適さなかった。
唯が食べるところを無意識に眺めていると、茉希名の視線を咎めるように唯が睨んだ。茉希名は慌てて顔を逸らした。冗談っぽく睨む唯があまりに可愛くて、直視できなかった。
「私はパフェ頼むけど、茉希名さんはどうする?」
まだ半分以上残っているアイスコーヒーを少しずつ飲んでいると、唯が尋ねた。
「私も同じのお願いします」
「うん、おっけー」
運ばれてきたパフェは苺とチョコがたっぷりのものだった。予想よりも大きく、茉希名は食べるのに時間がかかりそうだと思った。
こんなの食べたのはいつ以来だろう。
家族三人でレストランを訪れた時の記憶が蘇る。隣に座っていたのは父の
「茉希名さん、お口に合わなかった?」
顔を近づけて唯が囁いた。
茉希名は自分の暗い表情を自覚するも、取り繕うこともできず俯いた。
元の位置に戻った唯はそんな茉希名を心配そうに見つめながらも、それ以上は何も聞かなかった。
落ち着いたクラシック音楽が、長い沈黙の気まずさを和らげていた。
「……あの、私、親と上手くいってないんです」
「……」
「今住んでるのは義理の父親で。本当の父は去年死んじゃって」
「うん」
「母は父なんかどうでもいいみたいに再婚しちゃって。そんな母が大嫌いで」
「うん」
「……あの、迷惑でしたよね? こんな話しちゃって」
「いいや。ずっと待ってたよ。話してくれるのを」
茉希名は顔を上げて唯の表情を確かめた。初めて見る真剣な眼差しで茉希名を見つめていた。
茉希名は何も考えられず、ただ自分の頬を熱いものが伝っていくのを意識していた。
唯の真っ直ぐな気持ちが自分の心まで届いた気がした。
「お家に戻るよ。ちょっと待ってて」
茉希名の涙を一粒だけ掬うと、唯が立ち上がってレジへと向かった。食べ物を残すことを謝る声が微かに聞こえた。
茉希名は頭が真っ白のまま道を歩いていく。
ずっと触れたかったものが、いま自分の手を引いていた。
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