第17話 3 茉希名

「やあ、ただいま。今日は早く帰れたよ」


「おかえりなさい」


 茉希名のそれだけの返事に秋成は目を丸くした。それは二人の間で初めてのことだった。


「うん。ただいま。今日も名美さんは遅くなるみたいだよ。ご飯考えないと」


「分かりました。でもそれは後にして少し話しませんか?」


「う、うん勿論。すぐ着替えるから待ってて」


 秋成はネクタイを緩めながら自分の部屋へ向かった。茉希名は食卓の椅子に座り、何をするでもなく秋成を待つ。不必要に何度も髪をかき上げ続けていた。


「お待たせ。その、珍しいね。話しかけてくれるのは」


「そうですね。お母さんの事を聞きたくて」


 薄く笑っていた秋成はその表情を真剣なものにした。

 真顔ってこんな感じなんだ。普通のおっさんだ。

 茉希名はほとんど直視したことのない凡庸な顔つきに物珍しさを覚えていた。


「秋成さんは、何でお母さんと結婚したんですか」


「この際、誤魔化しはしないよ。茉希名さんの為だ。恥知らずだとは分かってる。でもそれが君のためだと思った」


「そうですか。父が自殺した理由を知っていますか?」


「それは……はっきりとは分からないけど、名美さんをとても愛していたからだと思ってる。僕にそれを言う資格はないけど」


「そういうのはいいです。最近お母さんの帰りが遅いのは何故ですか?」


「実は、最近夜遊びをしているようでね。お金の使い方がまた荒くなってきてる。注意してはいるんだけど」


「それは、私が最近虐待を受けていないことと関係がありますか?」


 それを聞いた秋成は悲愴な面持ちになった。椅子を離れ、膝を床に付けた。そのまま勢いよく土下座をした。


「今まで気付かなくて本当に済まなかった。僕がもっと良く見ていれば。二度とあんなことはさせない」


 見下ろす秋成の表情は凜々しく、真に迫るものだった。

 それを真っ向から見返す茉希名には何の感情も湧いていなかった。


「そうですか。話がしにくいので椅子に座って下さい」


「うん。分かったよ。本当にごめん」


 大人しく座る秋成は先ほどよりも小さくなったようだ。秋成を眺める茉希名は、頭の中に溢れる罵倒の言葉を必死に押さえ付けていた。それを解放すると涙が噴き出してきそうだった。


「母が私を虐待する理由は分かりますか?」


「それは、分からない。聞いたけど答えなかったよ。本人にも分かってないのかもしれない」


 子供を虐待することに合理的な理由なんて無いか。

 秋成の答えを聞き、茉希名は逆にどこかすっきりとした気分になった。


「明日、もしかしたら母に直接聞くかもしれません。その時は」


「僕も一緒に居るよ。居させて欲しい。お願いだから」


 話す秋成の表情は泣きそうにも見えた。


 この男はずっと必死だったんだ。知ってたけど。

 茉希名はじっと目をつぶる。心が冷えていくのを感じていた。

 しかしそれは不快なものではなかった。今まで敢えて意識せずにいた事を脳が受け入れ始めただけだった。


 これも唯さんのおかげかな。

 茉希名はわずかに口角を上げた。立ち上がると台所に向かった。


「今日は私が何か作ります。簡単なものしかできないけど」


「それは嬉しいな。楽しみだ」


 秋成の表情を確認もせずに冷蔵庫を開ける。使いかけのカレールーが目に付いた。複数を混ぜて使っているようで、一度では使い切れないようだった。


 食材を適当に取り出し、下ごしらえを始める。背後に居るだろう秋成を意識しつつも頭から排除していた。

 たまにしかしない料理に茉希名は苦戦していた。切られまいと抵抗する根菜たちが憎らしく思えた。


「いたっ」


 包丁が滑り、茉希名の人差し指を傷付けた。刃はしっかりと奥まで届いていたようで、傷口からすぐに赤い血が溢れてくる。


「すみません。絆創膏持ってきてもらえますか」


 後ろを振り向くと、秋成はすでに茉希名の方を向いていた。驚いたような顔で茉希名の赤くなった指を見ている。立ち上がる様子は無い。


「あの、絆創膏」


「ああ、分かったよ。すぐ持ってくる」


 秋成はゆっくりと立ち上がり、通路の奥に姿を消した。

 薬のとこ以外にも絆創膏あるんだ。

 茉希名は血が食材にかかりそうになったのに気付き、急いで流しに寄って蛇口を捻った。

 秋成がすぐに絆創膏を持ってきた。その手に触れないように端を掴んで受け取り、自分で貼り付けた。



*



「茉希名さ、最近明るくなったよね」


「そう? よく分かんないけど」


「いやいやモロ出しだって。男でも出来た?」


「あー、えと」


「ぎゃはは。ホント嘘つけないんだから。かわいいやつ」


 要がガシガシと茉希名の頭を撫でた。茉希名は髪を直しながら、赤くなった顔を隠そうと俯いた。

 放課後、話が盛り上がり茉希名は要と二人で教室に居た。他の生徒はほとんど教室を出ていて、いつもより広い印象を与えている。


「それで、どこの誰よ? 茉希名は可愛いから男は寄ってくるんだろうけど」


「うーん、どうしようかな」


「えー、教えてよー、親友でしょー」


 要は茉希名の両肩を掴んで前後に揺すった。茉希名は誰かを好きになる幸せな気持ちを、この親友にも知ってもらいたいと思った。


「あのね、もし男じゃないって言ったらどうする?」


 要は一瞬停止するも、すぐに笑顔になった。


「あ分かった! あの図書館の。ってごめん声大きいね。あのなんかいっつも受付に居る人だったりする?」


「まあ、そうなんだけど。気持ち悪かったりしない?」


「ぜーんぜん。あたしってほら、理解ある女だし。わー、禁断の恋ってやつだね。でもあの人なら納得だな。綺麗だし、なんかかっこいいし」


「ふふ、そうなの。しかも話が上手くて面白いんだ」


「へー、結構意外だな。でも優しいってのは分かるよ。そういえばこの前たまたま会った時、家に余ってるからってお茶もらったんだ。茉希名のお友達だからって。あれってそういうこと?」


「そんなことあったんだ。他に何か言ってた?」


「あたしももっと本を読んだらって。活字アレルギーだって言ったら笑ってたけど。それで、あんたどこまで行ったのさ」


 茉希名は微笑みながら紙パックの紅茶をゆっくりと吸い続ける。話そうとは思ったが、細かく説明したいとまでは思っていなかった。


「黙秘するってか。つれないやつだねー。まあいいよ。あんたが幸せなら」


「保護者かっての」


「ぶふ。え、もしかしてその腕時計もプレゼントってやつ? 急に着け始めたよね」


 目を伏せながら黙って頷いた。喜びと羞恥が同居していた。


「年上っていいなー。あー、なんかあたしも恋人ほしくなってきた。いい人いないかなー」


 窓から入り込む日差しが心地よい。茉希名はこれから名美と話すことを考えて憂鬱だった。暗い気持ちが要の明るさに照らされて晴れていくようだった。


「じゃああたし、寄るとこあるから先に帰ってて」


 要と別れて階段を降りていく。

 玄関を出ると図書館の立派な入り口が目に入った。


 今日は行かなくても大丈夫かな。

 図書館に寄っていこうかとも考えていたが、すぐに視線を外してバス停へと歩いていく。唯が受付に座っているかは分からなかった。

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