第16話 2 茉希名

 カウンセリングか。何を話せばいいんだろう。

 月曜日に相談室を通りがかり、茉希名はひと月前のことを思い出した。面談中に将棋盤を見つけて、安男から逃げ出してしまったのだ。

 その時は久しぶりに泣いてしまったが、父親が亡くなってから一年近く経つ今、少しは向き合えるかもしれないと思った。


 父の公希は茉希名が小さい頃、唐突に将棋盤を持ってきて勝負を仕掛けてくることがあった。将棋が趣味だった公希は幼い茉希名よりも当然強いはずだったが、敵である茉希名にアドバイスをしたり、巧みに正解手に誘導したりして上手に負けてしまうのだ。

 茉希名は子供ながらに手心を加えられているのが分かり、それがなおさら悔しかった。口数が少なかった公希を思い出すときは、その場面が浮かび上がることが多かった。


 唯さんも行けって言ってたし、あとで相談室に行ってみようかな。もしかすれば、私はカウンセラーにとって心配な生徒だったかも。

 廊下で会った安男の真剣な表情が印象に残っていた。


 放課後、事前に連絡もせずに相談室のドアを叩いた。予約をしなかったのは心変わりしたときに備えてのことだった。


「どうぞ」


 若い男性の返事があり茉希名は中に入った。以前と同じように明るく清潔そうな部屋で、安男が椅子に座っていた。


「茉希名さん。いらっしゃい。どうぞ、座って」


 安男は目を丸くするも、すぐに微笑んで立ち上がった。茉希名は近くのソファに腰掛けた。


「久しぶりだね。お茶でも飲むかい?」


「はい、いただきます」


「飲みたいものはある?」


「じゃあ、アイスコーヒーで。甘くなくてもいいです」


 互いの席にコップを置いて座ると、安男はコーヒーを口にして一息ついた。茉希名は、安男が茉希名から話し始めるのを待っているように感じた。

 茉希名は一つ深呼吸をしてから口を開く。話す内容は事前に考えていた。


「この前来た時、そこの将棋盤を見て父を思い出しました。小さい頃一緒に遊んだんです」


「……」


「父は無口で、考えてることがよく分からなくて、あまり好きじゃないと思ってました。どうして女の私に将棋なんかさせるんだって」


「そうなんだ」


「でも死んでみると、それは無口な父なりの愛情だったって分かったんです。なんでもっと優しくできなかったんだろう。お父さんはあんなに優しかったのに」


 思ったよりも早く涙が溢れてきた。安男は何も言ってはくれない。


「……私が悪い子だったから、置いて行かれたのかなって。私が悪い子だから、あんな奴らと」


 そこから先は続かなかった。静かな部屋で止まらない嗚咽の音だけが聞こえている。気付けば近くにあったティッシュペーパーを何枚も引き出し続けた。


 ――視界が明瞭になり、喉の渇きを覚えた頃、安男が前屈みになって口を開いた。


「すごいね。とても勇気の要ることだ。茉希名さんのように自分の心と向き合える人は、大人だってそうはいない。尊敬するよ」


 色々なものを吐き出した茉希名は、もはや潤いを欲して言葉を吸収するだけになっていた。


「それと、僕が知ってる茉希名さんはとてもいい子だ。頭が良くて、気を遣えて、笠原先生だっていつも褒めてる。要さんにも聞いてみるといい」


 何故要が話に出てきたかよく分からなかったが、茉希名はただ頷いた。


 それからはゆっくりと、とりとめもない話をした。


「要に教えるのはほんっとうに大変で。だってすぐ気が散ってどっかに行っちゃうんです。でも私が追いかけずにいると自分から戻ってきて」


「ははは。元気がいいんだね。それに、お互いが相手のことをよく分かってる」


「私のことより勉強のことを覚えてほしいです。それに――」


「――記号論、って知ってますか? 記号学とも呼ばれたりします。マイナーな学問なんですけど、奥が深くてよく読んでるんです」


「記号論か。聞いたことないな。どんなことを研究してるの?」


「意味がつくられる原理みたいなものです。私が今読んでるのはソシュールって人ので、比較されることで物の意味ができるって言うんです。だから分け方によって意味が変わる。例えば日本では虹は七色ですけど、ドイツでは五色だったりします。他には、どこからがおっさんか、とかもまちまちですよね。探せばいくらでもあります。同じものが見えていても、それを読解する辞書が違えば意味が変わるんです」


「へえ、面白そうだね。高校生のレベルじゃないんじゃない?」


「実は図書館に居る司書の人がとっても詳しくて。いっつも分からない所を教えてもらうんです」


「司書? へえ、そうなんだ」


 茉希名には、その時安男が大げさに驚いているように見えた。


「――どうかな。茉希名さんも疲れてきたみたいだし、また次の機会にお話しようか」


 茉希名が疲れを感じてきたところ、安男はすぐに察して面接の終わりを提案してきた。


「茉希名さん、あの、……これは茉希名さん次第だけど、お家の人と話をしてみてもいいかもね。今の茉希名さんなら以前と見える物が違ってくるかもしれない。頭の中で分け方を変えればね」


 安男はそう言って、部屋を出る茉希名に手を振った。茉希名は安男が珍しく言い淀んでいるのが少し気になった。

 もしかして、虐待に気付いてたりするのかな。


 相談室を出た茉希名は、恥ずかしさやら倦怠感やら、様々なものがごちゃ混ぜになってすぐには動けず、少し休んでから歩き始めた。



*



 どうしてみんな親と話せって言うんだろう。悪いのはあっちなのに。

 枕に顔を埋めて息を止める。すぐに苦しくなって顔を上げた。


 話し過ぎて疲れた体をようやく動かし、茉希名は真っ直ぐ帰宅してきた。近頃はあまり図書館にも寄っていなかった。どうせ唯と会うならゆっくりと一緒に居られる時に会いたかった。


 お母さんは、なんで私を虐めるんだろう。

 茉希名は今までずっと頭の中にあった疑問を初めて意識した。

 無意識に排除してきた問いに正面から向き合っても答えは出ない。茉希名がこれまで両親との会話を拒否してきたからだ。


 私はお母さんに、死んで欲しいと思ってるのかな。

 唯は父親に死んで欲しかったと話していた。いつも快活な唯には珍しく、暗い空気を纏っていたのを思い出した。


 ――玄関の方で物音がした。

 茉希名が物思いに耽っていると、知らぬ間に長い時間が過ぎていた。

 ゆっくりと木製の床を軋ませて歩くのは秋成だ。名美の帰宅に敏感になっている茉希名には、その音を聞けばどちらが帰ってきたのかが分かるようになっていた。


 今日もこっちが先か。

 最近名美の帰りが遅い理由が気になっていた。もし名美に不都合な事が起こっているのなら、茉希名にしわ寄せが来る。内心名美を恐れている茉希名にとって、毛嫌いしているはずの秋成は相対的に話しやすい相手だった。


 この際気になること全部聞いちゃうか。話しかけてやるんだから有り難く思え。

 茉希名は意を決して部屋の扉を開いた。その脚は震えていた。

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