第2話 茉希名 二
古びたマンションに帰り、
教室で待っていた
机に向かうと、秘密の品が変わらずそこにあるか気になった。
茉希名は机から鍵を取り出して、机下にあるキャビネットの一番下の引き出しを開けた。山盛りのファッション誌をどけると、二日前に拾った包丁が顔を覗かせた。
茉希名が死を目撃した男性は同じ学校の生徒だった。自殺だったらしい。
どうして落ちるときに包丁を持ってたんだろう。何かの事件だったんじゃ。
茉希名は右手に持った包丁を見つめた。スーパーで売っているような、安っぽいありふれた包丁だ。柄にのみ付いていた血はすでに洗っていた。
警察の聴取では包丁について触れられることはなかった。茉希名はバレれば何らかの罪に問われるのではないかと怯えていたが、特に問題は無かった。
自分で警察に通報しなかったことについて聞かれたが、パニックになっていたと答えるとそれ以上聞かれる事はなかった。
なんで包丁なんか拾っちゃったんだろう。色々危ないだけで意味ないのに。
今更疑問を感じるも、拾わなければならなかったという確信も同時に持っていた。そして包丁を手に取ったとき、確かに自分の中で何かが変わった気がしていた。
ステンレスの刃を動かすと、ぼやけて黒い塊になった自分が映った。
目が黄色だった。絶対。
短い時間だったが、青年の瞳は夕焼けとも違う、黄金に近い色をしていた。その引き込まれるような怪しさが、今でも茉希名の脳裏に焼き付いていた。
改めて包丁を眺めてみても、ただ鈍い輝きを返すだけだった。
その時、玄関の方から物音がした。すでに外は夕暮れで、母親が帰ってくる時間だ。
茉希名は急いで包丁を引き出しに戻し、上から雑誌を被せた。
足音が近づき、バタン、と唐突に部屋のドアが開かれた。茉希名は机に向かってノートに書き込みをしている。
「ふん」
背後から鼻を鳴らす音がしてドアが閉められた。音が遠ざかるのを確認すると、茉希名は勉強する振りをやめて机に突っ伏した。
しねしねしね。
中身のない罵倒を頭の中で繰り返す。茉希名の父が亡くなってから、
家の前で自殺が起こってからは特に機嫌が悪いようで、茉希名は名美に近寄ることも嫌だった。
茉希名は閉じられたノートの表紙に書かれた、田浦茉希名という文字を目に留めた。
あんな下らない男のせいで全部変わっちゃった。
様々な感情が入り混じり、どうしようもなくなる。茉希名は目の前のシャープペンシルを手に取ると、何度も芯を折りながら田浦という文字をぐちゃぐちゃに潰した。
*
長く感じた金曜日の学校が終わり、茉希名は清々しい気分になっていた。
生徒の自殺があったとはいえ、高校での日常は変わりなく流れる。
無関心な他の生徒と同じになることを厭いながらも、茉希名がそのとき感じた少しの憐憫もすでに薄れつつあった。
帰り支度をしていると、本の貸出期限が今日だったことを思い出した。バスで通学中に読むために鞄に入れていたのは幸いだった。
「ごめん、要。今日は図書館に寄らないとダメだ」
「げ、図書館? あたし活字アレルギーなんだよね。先帰ってるわ」
正面玄関を出てすぐの場所に図書館がある。
別棟として建てられたそこは校舎と比べて新しく、爽やかさすら感じさせる外観だ。
自動ドアを抜けると、ひんやりと涼しい空気とともに古本のにおいが運ばれてきた。
茉希名はすたすたと歩いていき、次に借りる本をすぐさま物色していく。しかしなかなか決まらない。見渡す限りの本の山は茉希名を喜ばせるも、同時に迷わせもしていた。
茉希名が通う
今回は少し調子に乗っちゃおうか。
茉希名は以前から目を付けていた記号論の厚い本を手に取ると、図書館の玄関方面へ歩いていく。
いつもあまり人がいない自動貸出機の前には何人かの男子高校生がおり、ひそひそと話をしていた。
あの様子だと時間かかりそうだな。あえて近づきたくもないし、受付を使おう。
鞄から学生証と期限が来ていた本を取り出し、司書の女性が一人座っている受付へ近づいた。
「こっちは返却で、こっちは貸出でお願いします」
「はい。お待ちください」
女性は事務的な口調で話すと、本に付けられたバーコードを読み取って手続きを進めていく。
茉希名がボーッと宙を見つめていると、ふふ、と弾む声が聞こえて顔を向けた。司書の女性が何やら笑みをこぼしたようだ。
「ごめんね。この難しい本を読むんだなって嬉しくなっちゃって。田浦さん、いつも記号論とかその辺りの本を借りて頑張ってるなって勝手に思ってたの」
いつも顔は見るが特別に話したことはない相手に、茉希名は返事に困った。司書の女性は若くさっぱりとした美人で、少し冷たい印象を受けていたため、そのギャップに驚いたということもあった。
「ここ、本はいっぱいあるけど使う人は少ないから、田浦さんのこと覚えてたんだ。話しかけちゃってごめんね。はい、どうぞ。手続きは完了です」
「別に大丈夫です。どうも」
茉希名は憮然とした表情で受け取って鞄にしまうと、すぐに図書館を出た。
少し面食らったが、内心では悪い気はしていなかった。
受験に必要ない勉強をしていると名美が良い顔をしない。苦心して読んでいることを褒められて少し嬉しかった。
あの司書の人、なんて名前だろう。もう少し明るくすれば良かった。
少しの反省を覚えながら図書館を後にする。部活動に所属していない茉希名はそのまま帰路についた。
高校近くのバス停へ歩いているとき、茉希名は誰かが自分を見ていた気がして振り向いた。そこにあるのは朽ちた民家だけで、誰も立っていなかった。
それ以上は特に気にすることもなく、バス停のベンチに座ると、鞄から借りたばかりの本を取り出した。
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