第3話 茉希名 三

茉希名まきな!」


 名美の呼びかけを受けて茉希名はすぐに部屋を出た。食卓に向かうとすでに田浦たうら秋成あきなりが席についていた。茉希名は秋成の顔も見ずに、いつもの自分の席に座る。洗い物をしていた名美がすぐに歩いてきて茉希名の対面に座ると、皆が自然に夕食をとり始めた。


「今日の学校はどうだった?」


「いつも通り、問題ありません」


「そうか、それは良かった」


 秋成のいつも同じ質問に、いつもの同じ言葉で答える。茉希名は何の意味も持たないこの問答が嫌いで仕方なかった。


 半年前から一緒に住むことになった秋成は、控えめながら事ある毎に茉希名に話しかけてくる。

 馬っ鹿じゃないの。

 秋成の存在は茉希名にとって父の自殺の原因である。名美の不倫相手である秋成に懐くことなど有り得ないと思っていた。

 秋成は元々口下手なのか、話すのは中身のない上辺の言葉ばかりだった。茉希名は秋成との会話に心から辟易としていた。


「勉強の方はどうなの」


「来週テストがあるからそれ見て」


 名美は口を開けば成績の事ばかり聞いてくる。重ねてうんざりしながらも食事を続ける。

 艶が失われてきた名美の肌や長い茶髪を見て、茉希名は食欲がなくなるのを感じた。

 しかしそれ以上に早くこの場を離れたいと、目前の器をさっさと空にした。食器を流しまで運ぶとすぐに自分の部屋へ戻っていった。


 学校の宿題をすぐに終わらせ、茉希名はファッション誌を眺めていた。すると、リビングの方から微かに聞こえ続けていたテレビの音がぷつりと途絶えた。

 それを敏感に察知した茉希名はすぐにヘッドホンを取りに行って装着した。


 金曜日の夜は茉希名にとって、休日に繋がる喜びの時ではある。しかしそれ以上に、吐き気の込み上げる不快さを齎す時でもあった。


 金曜日の夜、名美と秋成は必ず性行為をする。

 そこに義務感のようなものを感じられて、茉希名は殊更気持ち悪く思っていた。壁の薄いこのマンションでは、嬌声や何かがが軋む音が、離れた茉希名の部屋にも伝わる。


 茉希名はスマートフォンにコードを繋ぎ、音楽をかけ始めると頭に響く大きさまで音量を上げた。要が好きだというバンドのボーカルが喧しく愛を叫んでいる。


 茉希名は秋成の年齢を正確には知らない。おそらく名美より上で四十は超えているだろうと思っていた。卑屈ともいえる態度と薄くなった頭髪は、イメージ通りのくたびれたサラリーマンだった。

 お父さんを死なせてあんな男と結婚するなんて、頭おかしいんじゃないの。

 茉希名は目をつぶり、これまでに何度も感じた怒りを大音量の音楽でかき消そうとした。

 脳裏に二人が絡み合う映像が再生され、うぇ、とわざとらしくえずいた。


 音楽にもバンドにもあまり興味の無い茉希名は、騒音に顔をしかめながら楽しい休日の到来を待っていた。



*



「茉希名は休み何してた? また本読んでたの? 頭おかしくなるよ」


「ならないって。まあ本読んでたけど、この前借りたのはホント意味分かんなくて途中で寝ちゃった」


「茉希名でもそういうことあるんだ。あたしは何読んでも寝るけどね。そういや、前に教えた新曲聴いた?」


「聴いたけど、なんか途中でこっちが恥ずかしくなっちゃった。よくあんなの聴いてられるね」


 待望の読書漬けの二日間は、終わってみると敗北感を残すだけだった。

 見慣れない用語が頻出する学術書は、茉希名にはまだ高度すぎた。ネットを駆使しても次々に分からない言葉が出てきて茉希名にはお手上げだった。


 調子に乗って難しいの借りるんじゃなかった。

 月曜日になり、要と一緒に教室で昼食をとりながら茉希名は後悔を覚えていた。


「じゃ、あたし担任に呼ばれてるから」


 昼食を終えると要はそう言って教室を出て行った。


 時間もあるし、本は返して新しいものを借りようか。

 茉希名はパンの袋をぐちゃぐちゃに丸めて捨てると、本と学生証だけを持って図書館へ向かった。


 図書館に入ると、司書の女性が珍しく仕事中に読書をしていた。他に人はいないようで、暇なのだろう。整った顔立ちが知的な雰囲気を出している。

 茉希名がつい顔を眺めていると、司書が茉希名に気付いて薄く微笑んだ。


「いらっしゃい。この前のはもう読んじゃったの?」


「いえ、これはちょっと難しすぎたので別のを借りようと思って」


「確かにそれは厳しいかもね。おすすめを教えようか。今はかなり暇だし」


 司書はおどけたように話して、持っていた大ぶりな本を茉希名に見せた。茉希名には医学関係の本かな、ということしか分からなかった。


「あの、じゃあお願いします」


「私は奥之園おくのそのゆい。よろしく、田浦さん」


「よろしくお願いします。奥之園さんは記号論に詳しいんですか?」


「大体分かるよ。精神分析系はいまいちだけどね、フロイト嫌いだし。そのラカンの意味分かんないやつは返却しちゃおっか」


「ふふ、そうします」


「田浦さんは好きな人いるの?」


「え?」


「あ、ごめん。よく読む思想家について聞きたかったの」


「あ、はい。実はまだよく分かってないんです。初心者向けのやつありますか?」


「おっけ。ちょっと待ってて」


 唯は颯爽と歩いていき、すぐに一冊の本を持ってきた。


「はいこれ。簡単ってわけじゃないけど、よくまとまってるの」


 受け取ったその本は、茉希名も見覚えのある人物の思想を日本人が解説したもののようだった。


「ありがとうございます。挑戦してみます」


 茉希名は二冊の本を手渡した。唯は手際よく処理を進めて茉希名に一冊を戻した。


「分かんないとこあったら聞いて。平日は大体居るから」


 笑顔で小さく手を振る唯に、茉希名は軽く会釈をして図書館を出た。


 なんか、いい人だったな。

 人と接するのが得意ではない茉希名も、唯には親しみやすさを感じていた。

 古びた本を胸に抱いて教室へと戻っていく。自分がわずかに笑みを浮かべていることに気付いていなかった。


「やばいって、茉希名。勉強教えてー」


 茉希名が教室に入ると、要が突然抱きついてきた。


「先生がね、成績がやばいって言ってね。最初は心配してたけど段々怒られてるみたいになってね」


「よしよし、いい子いい子」


 頭を撫でてから要を引き剥がした。

 この勉強嫌いの友人にどう教えたものか、自信が無いと悩むのだった。



*



 茉希名はバスの中で、唯に推薦された本を読んで帰った。第一章の途中までしか読めなかったが、前に借りた本とは比較にならぬ理解しやすさだった。


 これなら読めそう。今日でどこまでいけるかな。

 家の前に着き、茉希名は少しだけ口元を緩めながら扉を開けた。


 玄関を抜けてリビングに入ると、すでに名美が帰っていて、ソファに座り何かを飲んでいる。テーブルを見るとすでに空けられたビールの缶が並んでいた。

 それを見た茉希名は一瞬で表情を失い、頬を固くした。

 気配に気付いた名美が振り向いた。その厚化粧の下からでも分かるほど顔を赤らめている。


「こちらへ来なさい」


 言う通りに歩いていく。名美は無表情でそれを見ている。


「鞄の中身を全部出しなさい」


 茉希名は鞄を開けて中の物を空き缶の横に並べていく。分厚い学術書を出したとき、名美がそれを右手で素早く掠め取った。


「これは何? 学校の成績には関係ないでしょ。こんなもの読んでる暇があったら学校の勉強しなさい。ほら、服を上げて」


 茉希名は制服をたくし上げて胸の位置で止めた。ほどよく肉のついた色白な腹が無防備に晒された。柔らかそうな白の中で、左脇腹の一部だけが青黒く変色している。


 名美がゆっくりと右手を伸ばす。変色した肉に、親指と人差し指の腹がぴったりと添えられた。予測される苦痛に身を固くして歯を食いしばる。まだその時は来ない。


 狙いを定めたはずの二本の指は、白と黒の柔肌の上を交互に優しく這い回る。ざらざらとした指の腹が敏感な皮膚を刺激した。愛撫されるようなこそばゆさに身を捩らせた瞬間、一気に指が食い込んだ。鋭い痛みに茉希名の顔が歪んだ。

 二本の指が協力して肉を挟み込み、ゆっくり前後に動いていく。逃げ場を無くした肉がすり潰され、痛みを発して助けを求めた。

 追い打ちをかけるように、固い指骨が押し付けられ、擦り付けられる。死にかけの肉が悲鳴を上げた。茉希名は固く目をつぶり必死に奥歯を噛み締めて耐えることしかできなかった。


 震えるほど力が込められた指先、その黒ずんだ爪が食い込み皮を破る寸前に、その手は離された。目を開けてよろめく茉希名の前には、変わらず無表情な名美の顔面があった。


 茉希名は息も絶え絶えに、テーブルの上の物を乱雑に鞄に入れると、右手で左の脇腹を押さえながら自分の部屋へ向かった。

 鞄を投げ捨てて上半身だけベッドに倒れ込む。衝撃でまた患部が痛んだ。

 布団に顔を埋め、ただじっと痛みに耐えていた。


 秋成より帰りが早い名美は、時折一人で酒を飲んでいることがあった。

 酒を飲んだ名美の、モノを見るような視線を浴びると茉希名は身体が竦んでしまう。一番初め、茉希名が抵抗すると唸り声を上げて近くにあるものを全て投げつけてきた。その時、無表情から一気に獣のように豹変した母の凶相を思い出すと、茉希名は動けなくなるのだった。


 大丈夫。もう慣れた。

 涙を浮かべながら自分を納得させる。顔を上げて鼻をすすると、机の下のキャビネットが目についた。

 茉希名は下の引き出しから包丁を取り出した。大の字になって背中からベッドに倒れ込む。右手に握った包丁を眺めていると少し安心する気がした。

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