第4話 茉希名 四
授業の合間の休み時間、学校の廊下を歩きながら、
必ずというわけではないが、名美の折檻の痛みが後を引くことがある。昨日のものがそれだった。
何をするにしても疼くように鈍い痛みが走る。茉希名は自分では気付かぬうちに呼吸が荒くなっていた。
「茉希名さん?」
声がして振り向くと、カウンセラーの安男が茉希名を心配そうに見つめていた。
茉希名は面倒なときに会ってしまったということしか頭に無かった。
「具合悪そうだよ? 保健室に行かない?」
「あの日なだけなので、構わないでください」
「それでもだ、茉希名さん。無理はしないで欲しい」
急に口調を強めた安男に驚き、茉希名は目を丸くして安男を見つめた。安男は真剣な表情で茉希名と見交わすと、すぐに元の柔和な顔に戻った。
「我慢するのは身体に悪いよ。僕の所でもいい。もっと大人を頼って欲しいな。僕は月曜と火曜には居るから、良ければおいで」
安男は手を挙げて歩き去った。授業開始のチャイムが鳴り、ようやく時間が無いことに気付いた茉希名は早歩きで教室に戻る。
早く図書館に行きたいな。
茉希名の脳裏には唯の笑顔が浮かんでいた。
*
放課後、要と別れてすぐに図書館に向かった茉希名は、唯に薦められた本の続きを読んでいた。
フランスの言語学者の思想を日本人がまとめたその本は、難解な内容が平易に噛み砕かれていて読みやすい。またその理論は多くの記号論者の思想のベースになっているようで、茉希名は今までに消化不良だった部分が少し腑に落ちた気がした。
唯が座る受付が遠くに見える席で、茉希名は読書を続ける。唯は何か仕事があるらしく、画面に向かってキーボードを叩き続けていた。
これからは家で本を読むこともできないのかな。
名美が茉希名を虐待する時、これまでは携帯ゲームや雑誌などの明らかな娯楽品がきっかけになっていた。これまでも良い顔はしていなかったが、学術書が契機になったのは昨日が初めてだった。
教科書にも載ってる人だし、学校の勉強と全く関係ないわけでもないんだけど。
茉希名はそう思うも、名美にそれを説明するという愚かな行為をするつもりは無かった。
本を開いたまま物思いに耽っていると、知らぬ間に隣に誰かが座っていることに気付いた。顔を向けると唯が頬杖をつき、微笑みながらこちらを見ていた。
「どっか分からないところあった? 田浦さん」
「少し別の考え事してました。……あの、奥之園さん。田浦って呼ぶのやめてくれませんか。その、少し苦手で」
唯はそれを聞くと、斜め上を見て何やら微かに頷いた。
秋成の事について話してはいないが、何か納得したようだった。
「そう。じゃあ茉希名さんって呼ぶね。代わりに私の事は唯って呼んで。その方が短くていいでしょ」
唯はいたずらっぽく首を傾げて、艶のある黒髪が机に垂れた。その笑顔が茉希名にはとても眩しく感じられた。少し呆けて見とれた後、茉希名は照れを隠すようにして頁の一部を指差した。
「あの、ここなんですけどよく分からなくて――」
他に誰もおらず、空調の音だけが聞こえるはずの図書館の中で、二人の楽しそうな声が響いていた。
*
普段よりずっと遅い帰宅に、茉希名は扉の前でしばし立ち止まった。借りていた本はすでに返却していて、これからは図書館で読むことにした。しかし今日は唯との会話に花を咲かせてしまい、すでにすっかり日が落ちてしまっていた。
あいつに見つかったらどうしよう。
茉希名は怯えながら玄関の扉を開いた。
いつもならあるはずの派手なヒールが見当たらない。茉希名は長く息を吐いて体の力を抜いた。
リビングに入ると、秋成がソファに座ってテレビを見ていた。
茉希名は気付かれないようにそろりと歩いて自分の部屋に向かおうとする。しかし秋成は後ろを振り返り、作ったような笑顔を見せた。
「名美さんは今日飲み会だって。出前でも取ろうか。何がいい?」
「蕎麦がいいです。お願いします」
それだけ言い放って部屋に入った。苦い顔をしながら部屋着に着替える。
ああでも言わないと長くなるからな。カップラーメンでいいんだけど。
この後秋成と二人で食事をすることを考えて憂鬱になった。
秋成は可能な限り一緒に食事をとることにこだわっているようだった。それが家族の絆だとでも言わんばかりに。
家父長制の犬め。茉希名は覚えたばかりの単語を使って心の中で毒づいた。
「今日の学校はどうだった?」
「問題ありません」
「この蕎麦美味しいね」
「……」
「今度一緒に買い物でも行こうか?」
「いえ、大丈夫です」
共に食卓につき蕎麦をすする。茉希名の冷淡な態度も気にせず、秋成は満足そうだ。その人間らしい悪感情を見せない所が茉希名は大嫌いだった。
味のしない食事を終えて茉希名が自分の部屋に戻ると、チャットアプリの通知が届いていた。アカウントを教えたばかりの唯からの着信だ。
ベッドに寝転がって内容を確認した。帰る前に聞いていた、他のおすすめの本についての詳細が書かれていた。
絵文字を多用した明るい調子なのかと思っていた茉希名は、見るからにアプリを使い慣れていなさそうな硬い文体を見て笑ってしまった。
「把握しました。また明日行きます」
普段より過度に装飾を加えたメッセージを送り、茉希名はスマートフォンを胸で抱くように乗せた。自然と顔が綻んだ。
図書館に行くとして、帰る時間は大丈夫かな。言い訳考えておかないと。
美容師をしている名美は近頃帰る時間がまちまちだった。茉希名は仕事のことについて名美に尋ねたりなどしていないが、何か異変があったのではないかと感じていた。
ぴこん。胸の辺りから通知の音がして、もやもやとした気持ちは一瞬で消え去った。
長い時間をかけて返事に悩む茉希名は、自分に芽生え始めた知らない感情に気付いていなかった。
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