第5話 茉希名 五

「ごめん、今日は図書館行かないと」


「もー、また? そうだ、今日はあたしも行っていい? テスト終わって暇なんだ」


「え? いいけど。どうせ勉強なんてしてなかったでしょ」


 テスト期間中は勉強に使うのか図書館の利用者が多かった。そのせいで最近は唯と満足に話ができなかったため、茉希名まきなはテスト最終日の今日は図書館に行くと決めていた。


「茉希名が教えてくれたから大丈夫。赤点はないはず」


「はあ。じゃ行くよ」


 ため息をついて歩き始めた茉希名を、要が後ろから追い越していった。



 図書館に入ると、パソコンに向かっていた唯が来館者に気付いた。


「お、珍しいね。お友達?」


 要は驚いたのか、即座に茉希名の後ろに隠れてしまった。


「はい。口数が多い子なんですけど、静かにさせますので」


「そう。よろしく頼むよ」


 唯は再びパソコンに向かって作業に戻る。


 そっか、今日は二人で話せないんだ。

 茉希名は胸の奥が少し重くなるように感じた。


 空調から送られる風が肌を冷やし、鳥肌を立たせた。茉希名は文字を追うのに集中していた視線を空調に向けた。秋に変わりつつある気温にそれぞれが適応できていなかった。

 


 そういえば、要の声がしなくなったな。

 隣を見ると少女が机に突っ伏していた。どこからか持ってきたのだろう料理の本は開かれてすらいない。

 はじめ何かとちょっかいをかけてきた要は、茉希名が読書に集中しているうちに眠ってしまったようだ。

 ゆっくりと肩を上下させる要を、茉希名は頬を緩めて見つめていた。


 コンコン、と何かを叩く固い音がした。茉希名が振り向くと、唯が本棚をノックしていた。

 目が合うと、唯は手で招くような仕草をした。茉希名は本に栞紐を挟むと静かに立ち上がり、唯の元へ向かった。


「寝ちゃいました。活字が苦手みたいで」


「そうみたいね。でもうるさくされるよりはいいかも」


 ひそひそと小さい声でする会話はなんだか可笑しかった。

 茉希名は笑うのをやめて、一つ大きく息を吐いた。


「要って言うんですけど、寂しがりなんです。家が大変で。私も似たようなものなんですけど」


 唯は目を細めたまま話を聞いている。


「最近、家で本を読みづらくて。親が文句をつけるんです。成績には関係ないだろって。図書館で読もうにも帰りが遅くなるから、どうしたら」


 話す茉希名の唇を、唯の手のひらが優しく覆った。

 わずかに触れる長い指はひんやりと冷たい。


 声が大きかったかな。そう思ったがそんなことはどうでもよかった。

 自分を見つめる唯が今何を思っているのか、それを知りたかった。


 そのまま唯と見つめ合うも、やがて手が離された。

 館内の静けさと裏腹に、茉希名は自分の鼓動の音を強く感じていた。


「もし良かったら、来週の休みは私の家に来る? ここには無い本も結構あるよ」


 唯の笑顔は美しく、茉希名は考える前に返事をしていた。


 生徒が職員の家に行っていいのかな。そんな疑問は一瞬で消えていった。



*



 要がなかなか起きず、茉希名の予定よりも帰宅が遅れてしまった。普段よりは遅いが、まだ夕方だ。

 静かに家に入ると、玄関からリビングへのドアが開いていて中の様子が見えた。ソファから振り返る名美の死んだ目がこちらを見据えていた。


 茉希名は鞄を取り落として硬直した。名美から視線を逸らすと、いつもよりゆっくりと靴を脱ぎ、震える手で鞄を拾って名美の元へと歩いていった。

 テーブルを間に挟んで名美に向かい合う。ビールの空き缶が散乱していた。


「遅かったね」


「はい」


「わかるね?」


「はい」


 茉希名がテーブルの脇に近づくと、名美が腰を上げて正面に立った。その赤くなった顔には何の感情も浮かんでいない。


 茉希名は制服ごとインナーの裾を持ち上げて、腹が露出した状態で静止した。地味なブラジャーの一部が顔を覗かせた。

 五本の指が怪しく蠢き、茉希名の左脇腹を優しく撫でる。冷たさとくすぐったさに、小さい身体が微かに跳ねた。


 親指と人差し指の荒れた皮膚が、青黒くなった肉に優しく触れた。茉希名の意思に反して、痛みの引いていた患部に意識が集中させられる。

 肉を挟んだ二本の指は互いを求めるかのように、少しずつ、少しずつその力を増す。柔らかい肉が圧力を加えられ平らに固く押し潰されていく。

 潰れた肉の断末魔が、痛覚として体中を駆け巡る。それに喜ぶように名美の指が小刻みに震え、残った肉を捻じ切らんばかりに抓り上げた。茉希名は喉の奥から呻き声を上げた。顔が歪むほどに強く左目を閉じ、左の奥歯を食いしばって。


 開いたままの右目が、半開きだった扉の隙間に何かを捉えた。誰か居る。


 黒の背広を着てじっとこちらを覗いているのは秋成だった。


 秋成は茉希名の視線に気付いたか、背筋を伸ばすとゆっくりと歩いてきた。

 肉が抓り上げられる痛みはもはやどこかへ飛んでいき、茉希名はとにかくここから逃げ出したかった。

 名美は近寄ってくる秋成に気付くと動揺した様子で、すぐに茉希名から手を離した。


 解放された茉希名は涙で輝く視界を頼りに、荷物も構わず部屋へ走った。

 扉の閉止も確認せず、布団に顔を埋めて倒れ込んだ。

 声が出るのも構わずに、意識を失うまで布団を濡らし続けた。



*



 ――何の夢も見ずに唐突に覚醒した。瞼を開けても視界は暗黒が支配していた。目の周囲に乾燥した涙の残骸を感じて気持ち悪かった。

 茉希名は照明を点けると、机の上のウェットティッシュを引っ張り出して顔全体を拭った。一枚では足りない気がしたため、一気に三枚取り出して乱雑に顔を擦った。


 窓から光は差さず、ただ闇を映している。すでに深夜になっているようだ。

 途方もない疲労を感じて、茉希名はベッドに仰向けになった。身体が空腹を訴えていたが、何も食べる気にはならなかった。


 私はまだ、あの男に何か期待をしていたのかもしれない。


 秋成がじっとこちらを見ているのに気付いたとき、とても悍ましいものを見た気がしてその表情までは確認できなかった。あの男は義理の娘が虐待を受けている所をどんな気持ちで眺めていたのだろう。


 子どもの頃に見た、穏やかに笑う父の笑顔が瞼の裏に映った。

 お父さんなんか、別に好きじゃなかったのに。

 まだ枯れてくれない涙を抑えつけるように、右腕で両目を覆った。

 お父さんも、こんな気持ちだったのかな。

 一人でこの世を離れた父親が憎いような、羨ましいような気持ちになった。

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