第6話 安男 一

「改めて、この度は、本当に何を言ったらいいか……」


「ありがとうございました神成かんなりさん。息子はあなたがとても親身になってくれたって感謝してると思います。私も同じです」


「もっと、もっと何かをしてあげられたら」


 その先が続かず、安男やすおは下唇を噛んで固く口を閉じた。


「他にも困ってる生徒さんがいらっしゃるでしょう? その子たちを助けてあげてください」


 笑って外を眺める韮崎にらさき巴恵ともえの表情は、穏やかというより生気が抜けてしまったようだ。脂の減ったこげ茶の髪の毛が弱々しい印象を強めていた。


「もちろんです。どうか、お母様もお身体に気を付けて。失礼でなければ、また来てもいいですか。こうくんに甘い物を持ってきます」


 巴恵はやや驚いた表情を見せたが、小さく首肯した。

 やっぱり自殺を止められなかったカウンセラーの来訪なんて迷惑だよな。


「それでは、失礼します」


 扉を開けると、茶色い錆が点々と目立つ手すりがあった。錆を避けて白い部分を掴んだ。見下ろすと、駐車している軽自動車がおもちゃのように小さく見えた。安男はぞわりと背筋が寒くなった。

 マンションの五階は、高所が得意ではない安男にとって長居したい場所ではなかった。


 あえてエレベータを使わずに長い階段を降りていく。考える時間が欲しかった。

 幸くんは何故飛び降りたのだろう。

 自殺の瞬間、同じ部屋にいたという巴恵にそんなことを聞けるわけもなく、ただ悔しさと悲しさが胸を満たした。


 大学を卒業してからすぐにスクールカウンセラーになった安男は、今年で三年目を迎えていた。

 右も左も分からなかった最初とは違い、今では多少勝手が分かったつもりだった。

 心という、人間の最も重要な部分にかかわる仕事をまだ甘く見ていた。

 手すりを掴んでいない左手を固く握りしめた。


 韮崎幸は比較的最近に相談室を訪れた生徒だった。二ヶ月前の事だった。

 遊びで訪れているように見せる生徒も多いなか、ひどく深刻そうな表情を浮かべて部屋に入ってきたのが印象的だった。

 話の内容は他校の女子生徒に無理矢理関係を迫り、傷付けてしまったということだった。話を聴く限り、行為が終わった後に適切な同意が得られていなかったと気付いたようだ。

 相手については阿畑あばた貴音たかねという名前と、通っている高校だけを幸から教えてもらっていた。三校を掛け持つ安男だが、その高校は受け持っておらず、それ以上は知らなかった。

 一応は交際の延長ということで相手からの訴えなどは無かったようだが、その出来事は幸の心に深い傷を残したようだった。


 自殺することになるとは。俺は何も分かっていなかった。

 やや大柄な体格の幸は、話してみると優しく穏やかな性格のようで、だからこそ相手を傷付けてしまった自分を責めているようだった。

 しかし安男の所見では自分や他者への攻撃衝動は見受けられなかった。穏やかに人と関わっていく中で、自分を許せるようになっていくと考えていた。


 自罰的な傾向があるって気付いてたじゃないか。

 階段を降りきった所で立ち止まり深呼吸をした。自分への怒りは消えてしまったわけではないが、少しは落ち着いたように感じた。


 事件が起きて傷つくのは被害者ばかりではない。思春期の柔らかい心には特に、相手を傷付けてしまったという後悔や罪の念が強く刻まれることがある。

 そしてその心はわずかなきっかけで全く別の形に変わってしまうこともある。


 俺はもっと何かできなかったのか。

 何度も自分に問いかけたその疑問の答えはまだ出ていない。

 他の生徒を助けてあげて。先ほど聞いた巴恵の言葉が思い出された。

 彼女はどんな気持ちでその言葉を投げかけたのだろうか。

 自分にその資格が無いと知りながらも、溢れる涙を止められなかった。


 気持ちを落ち着けて、目を赤くしたままマンションを離れようとした時、一度だけ会ったことがある田浦茉希名のことを思い出した。

 幸が落下した所を目の前で見たという彼女は、カウンセラーの安男から見れば心配で堪らない少女だった。

 知的な雰囲気を出すショートカットの少女は、普段から感情を抑圧していて発散する機会を持っていない。男性か、あるいは大人に対して強い不信を抱いている。仕草や話し言葉からそういった便宜上の見立てをしていた。


 担任の指示で相談室を訪れた彼女は、おそらくこちらから過度に干渉をすれば、より心を閉ざしてしまうと思った。相談室にあった何かを見て顔色を変え、逃げるように去って行った彼女を追えなかったことが本当にもどかしかった。


 幸くんの最期を目撃したことが彼女にどう影響しているかは分からない。でも彼女が父親の自殺を自分の中でまだ消化できていないことは間違いない。


 力になりたい。

 安男は振り向き、老朽化しつつある古いマンションを見上げた。

 若き日に人を救いたいと願ったときと同じく、心が蒼く燃え上がるようだった。



*



 帰宅して荷物を置くと、どっと疲れが押し寄せてきた。ここ最近の自分の心を映したような部屋の汚さにうんざりした。

 韮崎家を訪れる以外には少し買い物をしただけだったが、それ以上に気疲れをしていた。


 幸が亡くなってから一週間経った土曜の日。葬式の話もなく、いてもたってもいられなくなった安男は唐突に韮崎家を訪れてしまった。スクールカウンセラーは保護者と面談することもあるため事前に情報は持っていた。

 初対面の巴恵は穏やかな気性らしく、すんなりと迎えてくれた。自殺ということもあり、葬式は開かないと話していた。


 もしカウンセラーの自分に腹を立てていたらどうするつもりだったのか。

 とても酔ってしまいたいような気分だったが、下戸なため家に酒など無かった。


 運んでいた荷物を整理してスマートフォンを見ると、不在着信が入っていた。母親からだった。

 ずっと鞄に入れていたから気付かなかったな。

 安男は笑顔になり、すぐに折り返しの電話をかけた。一度のコールも終わらないうちに呼び出し音が消えた。


「安男ちゃん、元気?」


「うん、俺は元気だよ。そっちはどう?」


「元気よ元気。でもこの前お父さんが腰を痛めちゃって、最近休みはずっと家にいるの。もう邪魔で仕方なくって」


「ははは。母さんが元気そうで何よりだよ」


「……安男ちゃん、本当に大丈夫? 嫌なことでもあった?」


「……実は仕事で大変な事があってね。詳しくは言えないけど少し疲れてるんだ」


「明日そっちに行きますから、ちゃんと部屋を片付けといてね。いつも私に任せていないで」


「分かってるよ。それで腰を痛めたっていうのは――」

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