第28話 14 茉希名

 殺す殺す殺す。絶対に殺してやる。

 自らの脳を焼き切る程の情動の奔流。しかし目の前にいる男の顔色さえ変えられない。

 私は人間だ。人間なんだ。

 神経が麻痺して話すことさえ許されない。天井を見つめながら、自分が家畜のように解体されていくのをただ感じている。


「今日はちょっとアレンジしてみるか」


 男が妻に呼びかけた。料理でもするような気軽な口調だ。耳元で微かな返事が聞こえた。

 お前は悪魔だ。地獄に落ちろ。女、お前も死ね。

 麻酔が強く効いている。顔が動かせたならば殺すほどに睨むつもりだった。


 細い左腕に異物が侵入していく。皮が裂かれて艶やかな内部が光を浴びた。血液がじわりと染み出し穏やかに溢れて止まらない。男は寡黙にお気に入りの解剖刀を押し付け続ける。細かな管など気にせず次々に繊維を断ち切っていく。鋭利な刃が色白だった腕を一周した。最後に動脈が断たれて鮮血が吹き出した。

 男はまるで気に留めることも無く作業を続ける。女が渡した巨大な鋏が閉じられるとすぐに左腕が外れた。


 持ってっていいから、もう殺して。

 血を吹き出す左肩が見えていないかのように二人は後ろを振り返った。切断した左腕を皿に乗せて歩いていく。

 立ち止まった場所には少年が横たわっている。いつものように顔に布を掛けられ、安らかに寝息を立てていた。全貌が晒された陰部がつるりと綺麗に光を反射している。


 照明だけが映る変わらぬ景色の中に赤の飛沫が混じり始めた。尊厳を奪われた身体が、それでもなお生き続けようと酸素を運び続けている。そのほとんどは途中で宙に投げ出され空気へ溶けていく。


 少年。君はどうしていつも寝ている。どうして黙って受け入れている。

 やがて赤の飛沫が消えて一部の感覚だけが戻ってきた。動けないことに変わりはない。


 殺せ。殺してよ。もう全部消えて。殺せ。ころせ。ころせ。ころせ。ころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせ ころせころせころせころせころせころせ――



「はっ」


 ……息が苦しい。汗をかいていた。身を捩らせるとシートベルトが身体を締め付けてきた。


 またあの夢。でもまだマシだったな。

 拘束された女性が身体を解体されていく。その怒りに同調しつつも映画を見るように俯瞰から眺めている。眠る度に襲ってくる凄惨な悪夢に茉希名はすでに慣れてしまっていた。自分は狂ったのだと納得していた。


 右を見ると唯ではなくトオルが座っていた。気まずそうな顔で茉希名を一瞥するとすぐに前に向き直った。

 私部屋で眠ってたはずだけど。まあいいか。

 きょろきょろと車内を見回す。茉希名の知らない車だった。落ち着く匂いがした。

 外は暗闇で何の灯りも無い。ヘッドライトの光だけを頼りに、二人を乗せた軽自動車は曲がりくねった山道を走っていく。周囲には建物の気配すら無く他の車も見当たらない。


「うふふ、そっか。また攫われるんですね、私」


「……ごめんね」


「頭、大丈夫ですか? あは、ぶつけたとこですよ」


「うん。大丈夫だよ。唯から聞いてない?」


「何のことですか?」


「僕が死なないってこと。怪我もすぐ治る」


 開いた口が塞がらない。自分はまだ夢の中にいるのかと思った。


「そっか。やっぱりね。唯ならそうすると思った」


「あはは。あはははは。意味分かんないですって。あはは」


 トオルは眉尻を下げながらも前を見つめ続ける。ハンドルを握る手に不要な力が込められた。


「唯から何か頼まれたりした?」


「いいえ何も。ただ将棋やったり、本読んだり。セックスしたかったけどさせてくれなかった」


 緑混じりの紅葉が黒い風に吹かれて道路に落ちるも無残に踏み潰された。濁った体液を吐き出して地面に磔になった。


「田浦さん。君は狂ってなんかいない」


「そうですか? 私は唯さんに狂ってると思いますけど。こーんなに好きなんですから。ひょっとしてやきもち焼いてます?」


「焼いてないよ」


 意味も無く笑顔が溢れる。初めて見る車内は整然としていて遊びがない。茉希名は弄る物が無くてつまらないと思った。


「あーあ、唯さんと会えなくなるのか。死んじゃおっかな」


 ブレーキが全開に踏まれた。ゴムが地面に擦られて甲高く泣き喚いた。


「自殺なんかさせない。絶対に」


「あはは。本気にしました? 真面目だなー。唯さんの言ったとおり」


「唯の真似をしてるの? やめた方がいい」


「何のことですか? そんなの」


「僕が君を守るから。お願いだから、そんな作った笑顔はもうやめて」


 茉希名はただ微笑み続ける。微笑みながら窓の外に顔を向けた。暗闇の中で木々の影が揺れているのが見えるだけだ。車内に居ても寒々しさを感じさせる風景だった。

 トオルは再びアクセルを踏んでタイヤを回転させた。寂しげな景色がわずかに流れ始めた。


「そんなこと言っても、危ないことなんて無いし」


「あるよ。君は親を殺しかけた。気付いてるよね?」


「何ですかそれ。ホントに意味分かんない」


「……親とはもう会えない。悪いけど、それだけは守ってもらう」


 茉希名は言葉を発しかけるも声にはならなかった。


「唯に貰ったその腕時計、外してくれる?」


「え? そんなことするわけ」


「外して」


 トオルの冷たい視線を初めて見た。それはあまり見ていたくないと思った。


「いーですけど。あげないですよ」


 右腕から外した瞬間にトオルの腕が伸びてきた。声を上げる間もなく、隙間から窓の外へと投げ捨てられた。


「発信器が付いてる。多分盗聴器も。寝てる隙に奪いたくなかった」


 目を丸くしてトオルを見つめる。薄暗がりの中、その綺麗な横顔が余計に輝いて見えた。


「町を出よう。どこか遠くに行くんだ。お金ならある」


 涙が溢れてくる。熱い雫が頬を伝い、その温度を譲り渡していく。


「泣かないで。お願いだから」


 何度も何度も流れるうちに境界が消えていく。顔中が全てぬるま湯に包まれたようだった。壊れたはずの自分がとうとう輪郭すら失ってしまったと思った。


「やっぱり、好きなだけ泣いていいよ。僕はここに居るから」


 もはや世界が分からない。自分がどこにいるのか、何をしているのか。

 ただ身体を包んでいる暖かさだけは必要なものだと思った。

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