第29話 15 茉希名

 唯さんはおかしい。

 気付いていた。自分が騙されていることを。レズビアンだとうそぶき、目の前で男に浮気をしてそれでも愛していると囁いてくる。耳触りのいい言葉ばかりを並べて自分が何を話したかも覚えていない。極めつけに盗聴の疑いまで出てきた。茉希名は今でも自分の部屋を見渡しているクマのぬいぐるみを思い出していた。


 呼吸するように嘘を吐き、人を騙すことに罪悪感も無い。唯さんはきっとそういう人なんだろう。

 言語化すると胸が痛んだ。しかしもう潮時だと思った。


「ありがとうございました。離して下さい」


 身体を包んでいた温もりが去った。いつの間にか助手席に移っていたトオルが車外に出ていく。冷たい外の空気が茉希名の顔から涙の残滓を攫っていった。トオルはドアを閉めると歩いてすぐに運転席に戻った。

 どこかの広くなった道端に車を停めているようだ。茉希名は自分が今どこにいるか見当も付かなかった。


「唯さんから逃げてるんですよね。車を出して下さい」


 すぐにエンジンが掛けられ、砂利が踏まれる音が背後に聞こえた。速度を上げながら暗い坂道を上っていく。鬱蒼とした森が怪しく蠢いていた。


「今何が起こってるんですか?」


「唯が君を死なない身体に、不死にしようとしている。親を殺すと不死になる」


「意味が分かりません。ちゃんと説明して下さい」


「ここ最近悪夢を見るよね。それは実際にあったことだよ。その手術されてる女の人、その人が呪いの元凶だ。僕はその呪いを受けて、親を殺した。唯は不死を治す方法を新しい犠牲者を使って調べようとしてるんだ」


「オカルトですね」


 冷たく言い放ちながらも鮮明に思い出していた。目の前で腹が捌かれる恐怖。四肢が奪われる喪失感。その怒りと絶望が伝染して茉希名自身が狂ってしまいそうな。


「どうして私がその呪いに?」


「唯と性交したからだろうね。止められなくてごめん」


 切なそうな唯の表情を思い出す。その甘い吐息、蕩けそうな香り。拳を固く握りしめる。歯を食いしばって痛みに耐えた。


「呪いを受けた者が親に触ると、目が黄色くなって人を殺したくなる。覚えはあるよね」


 弾かれたようにトオルを見た。忘れかけていた記憶が蘇る。黄色い目で自分を見る青年、その赤い顔。固く握られた包丁。自分に突然訪れた熱い暴力衝動。それら全てが頭の中で集合を作り意味を形成した。

 恐る恐るサイドミラーを覗き込む。青ざめた顔の中、黒い瞳が自分を見つめていた。

 大丈夫。私は大丈夫だ。


「……分かりました。信じます。それで、あなたの目的は何ですか? 結局何がしたいんですか?」


「うん。僕は唯を止めたい。田浦さんに親を殺して欲しくない」


「最初の小屋で二人一緒に居たのは?」


「二人で田浦さんを攫ったんだ。あの日、危なそうだったから僕は家の近くに待機してた。そこに唯も居た。あいつは久々の再会だって喜んでたよ。それからすぐに田浦さんが発症したから、僕が家に行って気絶させたら二人で運んだ」


「それで唯さんと協力したり唯さんから逃げたりですか。半端ですね」


「そう見えるかもね。でもこれが僕だ」


 車内は暗くトオルの表情は伺い知れない。しかしその言葉に強い覚悟を感じた。


「ただ、少しおかしいのは唯が僕を止めなかったことだ。直前で怖くなったか、僕に嫌われたくなかったのかと」


「後ろ来てます!」


 サイドミラーが眩しく輝いている。その中に見えるわずかな輪郭は四角く大きい。唯が乗っていたワゴン車だ。


「くそっ、早かったな」


 紆曲した坂道を減速することなく曲がっていく。身体が窓に押し付けられる。遠心力に耐えている間に、サイドミラーは更に眩く茉希名の両目を照りつけ始めた。


「掴まってて」


 エンジン音が悲鳴のように高まっていく。狭くうねった道路を軽自動車が正確に走り抜けていく。甲高い音が聞こえ、光が遠ざかった。大型のワゴン車では減速が避けられなかったようだ。

 後方から尚聞こえる重く鈍い音は唯が唸っているようだ。その醜い執着を思い、茉希名は背筋が寒くなった。


「まずいな」


 直線に差し掛かった。ヘッドライトが照らす限りでは次のカーブは見当たらない。トオルがペダルを踏みつけるも速度は変わらなかった。

 限界とばかりにエンジンが高音を放つ。後ろから大きな影が迫ってきた。


 前方にカーブが見えた。トオルはわずかにブレーキを踏んだ。急カーブを示す標識、それが光を反射していた。

 気付けばワゴン車が右にいた。茉希名は中に居るだろう唯の顔を確認した。暗闇の中で見えたのは嗤うように大きく開けられた口元だけだった。


「おい、おいおいおい」


 トオルの焦った声に前方を見た。道路は右へと続いている。しかし右方は唯のワゴン車が大きく進路を遮断していた。

 何かの標識が迫ってくる。何かを叫ぶも意味にはならない。


 耳をつんざく不快音。車体が大きく揺れた。天地を揺らすような衝撃。全てが不明になった。


 ……。

 俯いたまま動けない。身体が言う事を聞かなかった。瞼だけが微かに開く。赤い何かが見えた。


 体重を預けていた扉が開かれてシートベルトが身体を締め付けた。軽い音がして拘束から解放される。宙に投げ出される茉希名を細い腕が受け止めた。


「……おる、さ」


 口から音が漏れた。赤い何かは動かない。霞む視界が移っていく。ゆっくりと車の周りを引きずられていく。


「……きな、これ……だよ」


 弾んだ声がした。赤かった何かが黄色を帯び始めた。肉体に溜まった膿のような黄色が急激に増殖し、膨張して全身を覆っていく。


「……ちゃうから、……こうか」


 赤と黄色の塊が遠ざかっていく。暗い匣に閉じ込められて何も見えなくなった。全身が痛みとにかく熱い。


 振動が伝わる。音がする。その全てが憎い。

 脳裏に顔が浮かんだ。


「……な、め」


 もう嫌だ。要、要に会いたい。

 涙が一粒こぼれた。その温度を感じる前に意識が優しく宙に溶けていった。

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