第36話 22 茉希名
「茉希名ちゃん、久しぶり。あのね」
「おばあちゃんは、外で待ってて」
「でも」
「今はまだ、居て欲しくない」
老婆は悲しげに眉を歪めると扉を閉めた。後にはふらふらと身体を揺らす名美だけが残された。その様子を見ていると自然と口角が上がった。
「へー、痛そう。一人で歩いてね」
茉希名を見つめる名美の視線は険しい。その陰りは怒りにも悲しみにも見えた。名美は時折呻き声を上げながらゆっくりと茉希名に近づいてくる。腹部を押さえ、足を引きずって狭い通路を進んでくる。
出来の悪いゾンビみたいだな。
苦悶に顔を歪める母の顔を無表情で見つめていた。
「茉希名さん、やっぱり」
「近づかないで!」
気付けば後ろに秋成が立っていた。手を伸ばせば触れる位置に産毛の生えた左手があった。
「でも、病人に無理させるのは」
「何も知らないくせに! 全部あんたが悪いんだ。お前がいなければ、全部全部平和だったのに……」
力のこもった両手で自分の頭を掴んだ。そうしなければ殴りかかってしまいそうだった。
「とにかく、私に近づかないで下さい。絶対に触りたくないので」
あらゆる憎しみをぶつけるように睨んだ。秋成は諦めたように頷くとリビングへ戻っていった。茉希名には笑っているように見えた。
「変わったね、茉希名」
長い茶髪に遮られて名美の表情は確認できない。茉希名は両手を下ろして名美に背を向けた。
「ゆっくりでいいから、歩いてきて」
すぐ近くの食卓まで歩いて腰を下ろした。祈るように手を組んで目を閉じる。空の包装とコップが片付けられていたことにさえ、茉希名は気付かなかった。
「んぐっ」
くぐもった声を上げて名美が着席した。ようやく瞼を開いてその顔を確認する。生きることを諦めたような顔だと思った。
「何、その顔は」
「茉希名もこんな気持ちだったんだね。こんな、死にたくなるような」
「そうですよ、お母さん」
「謝ってもしょうがないけど、謝るね。ごめんね茉希名」
「泣いたら許さない。絶対に」
自分の目が涙に侵食されていくのを感じる。名美を睨み付けることで何とか押し留めた。
「これでお相子、にならないかな。また三人一緒に」
「一緒には居られません。他の人と暮らします」
「トオルさん、と言ったかな。他に女の人も居るみたいだけど、どういう関係なの?」
「二人とも私の仲間です。ここに居るよりは、安心できる」
「大人になったのね。それも急に。いいじゃない」
眉を潜めて名美を見つめた。名美も茉希名を見つめていた。
「好きな人ができたんでしょ。見れば分かる。あなたも私の子供だってことね」
奥歯を噛み締めて言葉を留める。
お前に何が分かる。ふざけるな。
「茉希名に仕返しされて、動けなくなって分かった。私、いらない事にこだわってた。世間体とか、見栄えとか。茉希名もそう思ったんでしょ?」
「あなたとは違います。一緒にしないで」
「一緒だよ。だって親子だもん。好きになったら一直線だったでしょ?」
「もう終わりました。とんでもないクズだった。お母さんみたいな」
名美が髪をかき上げ、脚を組んだ。苦しそうに顔を歪めたあと、不敵に微笑んだ。
「そうそう。お母さんも昔はそうだった。悪い男に惹かれるのね。それで結局、優しい人が欲しくなる」
「そんなこと聞いてない」
「茉希名はお父さんのこと、好きだった?」
「……今は好きです。大事で、大切だった」
「私はもう分からなくなっちゃった。思い出せないの、自分がどうしてあの人と結婚したか。結婚して、子供を作って、仲良く子育てする。どうしてそんなことしなきゃいけなかったのか」
「名美、お前」
「秋成さんの事は好きだよ。とってもいい人だから。でも、それだけ。どんなに無駄遣いしても、茉希名を虐めても、満たされなくなっちゃった。だから考え方を変えたの」
脚を下ろして食卓に手をついた。茉希名へと身を乗り出してくる。
「あの辛い経験があったからこそ今がある。前を向かないとねって」
こいつは何を言ってる? どうして笑ってる?
「茉希名もそう思えばいいよ。お父さんのおかげで強くなれた。お父さんが自殺したおかげで、恋を知った」
「秋成さん、もう邪魔しないで」
秋成は名美の胸ぐらを掴んだその手を離した。深く椅子に座ると、叱られた幼児のように俯き、動かなくなった。
「もしそうだとしても、あなたにそれを言う資格はない」
「そう? でも親が言ってあげないと。死んだら終わりなの。生きてる方が偉い」
こいつは私に殺されたいのか? なら、殺してはやらない。
「お母さんは最低だ。軽蔑します」
「あーあ、娘に嫌われちゃった。秋成さん、慰めて」
そうか、こいつも人間じゃないんだ。ようやく分かった。
茉希名は自分の手のひらを見た。固く締められていた肌色には青い血が流れているようだった。
「秋成さん」
黒い瞳が茉希名を見た。
「おばあちゃんを呼んで下さい。電話で」
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