第37話 23 茉希名

 ひとまずの結論は出た。自分の考えを確かめようと思った。全てが最悪に噛み合っていれば、望んだ結末になる。ため息をついて斜めを見上げた。


「茉希名ちゃん、呼んでるって、何があったの?」


 息を切らした老婆が入ってきた。茉希名は立ち上がり、沈黙のまますれ違った。真っ直ぐに玄関へ向かい、外への扉を開いた。


「トオルさんだけ、中に入って下さい」


 建物の陰から唯とトオルが現れた。どちらもスマートフォンを手に持ち、驚いた顔で茉希名を見ている。


「えー、せっかくの本番なのに」


「茶化すなよ」


「唯さんは、外で黙って見ていて。これは約束です」


 唯は茉希名に向かい、おどけた表情を見せた。以前は可愛くて仕方なかったその戯れは、今は張りぼてにしか見えなかった。

 トオルと二人でリビングへと歩いていく。狭い部屋の中に外道ばかりが集まった。


「へー、いい男だね。お母さんも惚れちゃいそう」


「おばあちゃん、お願いがあります。秋成さんと握手してくれませんか」


「え、そりゃあ、いいけどもね」


 状況を掴めていない老婆はオロオロと全員の顔を見比べている。茉希名は、この場に居る誰よりも正常で健全で生きるべき人だと思った。


「トオルさん、この人を守って」


「分かった」


「茉希名? 無視? おーい」


 この人に罪は無い。トオルならきっと意味の無い殺人は防いでくれる。秋成に不死になられても困る。

 悪夢の女性は拷問の末に呪いを創り出した。子供が親を殺す呪いを、親の体液を吸う蜘蛛になぞらえて。その経路が性行為だけによるのはおかしい。きっと血が関係している。

 この男が本当に私の経血で自慰をしていたのなら。これで、終わりにしよう。


「茉希名、握手を、すればいいんだね」


 生気を失っていた秋成が立ち上がって老婆の元へ歩いていく。力のこもった視線で茉希名を見つめた。何かを試されていることに気付いているようだった。


「それじゃ、どうぞ」


 茉希名の軽い声を合図に二人の手が握られた。皺と染みだらけの小さな手を、大きくて固そうな掌が掴んだ。


 男が低く呻いた。老婆を掴んでいたその手を離し、自らの頭を抱えた。溢れ出る欲望を押し留めるように目をつぶり、薄くなった頭を抑え込んでいる。

 トオルが老婆を連れて部屋を出ていく。茉希名にはすでに興味がなかった。

 ――やがて嘲笑が聞こえた。鳥のような、虫のような、甲高く耳障りな声だった。秋成は自らを拘束していた腕を下ろし、瞼を開いた。その黄色い瞳で名美を睨むと、緩慢な動作で近づいていく。女は危険を感じて逃げ出そうとするも椅子から転げ落ちた。鶏のような脚が弱々しく震えている。茉希名は白い壁にもたれかかり、腕を組んでそれを見ていた。


 秋成は怯える女を視界に捉えながら台所へと歩いていく。立てかけられていた包丁を手に取った。女は交互に後ろ手をついて健気に這いずっていく。秋成は正面からゆっくりと近づきながら、異常をきたした両の瞳で嬲るように名美の姿を見つめている。その口元から甘い唾液がこぼれ落ちた。透明の汚物が床に辿り着く直前、大きく引かれた糸が曲線を描いた。


 けたたましい悲鳴が部屋に響いた。供えられるように力なく投げ出されていた右の脚へ銀の刃が突き刺さった。じくじくと漏れ出す赤い液体に、にやけた男の顔が近づけられる。赤く染まっていく刃に銀色を取り戻すよう、執拗に、愛撫するように血液を舐め取っている。


 やがてその味に飽きたのか、服が捲れ、露出していた名美の柔らかな脇腹へと刃を突き刺した。固く包丁を握ったまま、喜ぶように拳を持ち上げた。粘ついた血液が垂れ落ち、新鮮な飛沫が床に散らばった。

 部屋には止めどない不快な絶叫が轟いていた。その叫びを盛り立てるように、ぴちゃぴちゃと淫靡な音が休むことなく奏でられている。茉希名には何も聞こえていなかった。ただ自分にとっての終わりの景色を目に焼き付けようと、呼吸も忘れて見入っていた。


 醜く血を啜っていた秋成が突き飛ばされた。獣のような凶相を浮かべた名美が男を睨んでいる。転がっていた椅子を持ち上げて男に叩きつけた。木製の脚が頭部を捉えて皮膚を削り取った。もう一度高く掲げると、獣の咆哮を上げて椅子を投げつけた。名美は暴虐の結果も見ずに、射殺さんばかりの視線をそのまま茉希名に向けた。右の脇腹を押さえながら立ち上がろうとする。しかしすぐに脱力したように倒れ込んだ。


「茉希名、助けて、茉希名」


 頭が痛い。頭が痛い。頭が痛い。

 名美はうつ伏せに倒れたまま這い寄ってくる。赤く照りのある液体を床にこびり付けながら。その乱れた髪を秋成が掴んだ。


 うん。やっぱり死にたい。

 秋成は掴んだ髪を乱雑に引き上げると床に叩き落とした。鈍い音が茉希名の耳に届く。二度、三度、刹那に見える名美の顔面は赤く滲んでいる。秋成は呼吸を荒げながら、ごみでも放るように名美から手を離した。力を失った人間の身体はゴム鞠のような弾性を示した。吹き飛ばされた血の一滴が茉希名の足に付着した。


 目の前の名美が血塗れの右手を床についた。限りなく鈍い、のんびりとした所作で、黒く虚ろな瞳を見せた。何か譫言を呟いている。茉希名とよく似ていた形の良い鼻は跡形もなくなっていた。


「あー、なるほど」


 茉希名は自分が何を話しているかも分からず、ただ母から距離を取った。呻き、震えている、何よりも醜い生物を前に素早く後退した。


 奥で何かを叫んでいた秋成がこちらへ歩いてくる。獲物に止めを刺そうと、刃物を握った拳を力ませ、笑いながら近づいてくる。茉希名の視界を、変わり果てた母の崩れた顔が覆った。鉄臭い吐息が顔まで届いた。意味のない音を発し続けていたその口元から、ただ一つだけ聞き取ることができた。


「あい、してる」


 名美は救いを求めるように真っ赤な手を茉希名に差し出した。茉希名はその手を取った。迷わず、正しく母の手を握った。愛してる。その言葉だけは許せなかった。

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