第38話 24 茉希名
ころせころせころせ。声が聞こえる。
ころせおやをころせおやをころせおやをころせ。祈るような、囁くような声だ。
ちょっとうるさいな。でも、気持ちいい。
名美の顔面を蹴り飛ばした。ころせ。血飛沫を上げて頭から倒れた。視界が真紅に染まっている。最も憎いころせ相手以外に何も見えていなかった。
よしよし、殺せる。違う、そんなこと。痙攣する名美に馬乗りになる。ころせ細い首筋に手を掛けた。意思に反して動く両手に温かい鼓動を感じた死にたい。
――意識の外から左の頬を張られた。右を向いた茉希名へ秋成の膝が追い打ちした。視界が回転して床に倒れ込んだ。吐き出された空気が床を跳ね返り茉希名の口内へと戻ってきた。
「ごほ、ぐ」
「じゃーま、だよ。茉希名」
秋成は身体を揺らしながら静かに
「邪魔なのは、お前だ」
ころせ。ただ単純に突進していく。おやをころせ。小柄な突進は貧弱で、互いの体勢を崩すに留まった。
「お前は、いつも、いつも俺を舐めやがって」
稚拙な蹴りが茉希名の腹部を捉えた。呼吸が止まって蹲る。短く揃えられた茉希名の髪を秋成の左手が掴んだ。
「俺がどんなに」
右の頬を張られた。死にたい。
「お前を想って!」
左が張られた。このまま死にたい。
「そんなに嫌いか。俺も嫌いだよ。汚物みたいに見やがって!」
全身が床に叩き付けられた。衝撃が胸を襲って咳き込んだ。
秋成は落ちていた包丁を拾った。逆手に持って歩み寄ってくる。
うるさい。うるさい。うるさい。
声が出せない。肺が詰まり、意識が遠のいて、全てが黒く染まっていく。
これでいい。ようやく死ねる。
もう十分だった。人生を楽しめた。苦しいことが多かったが、少しの幸せは知ることができた。
「茉希名、死なないで」
全てが濁って不鮮明だ。誰の声かも分からない。
「生きて」
懇願する声のあと、秋成の叫びが聞こえた。ようやく呼吸ができるようになり、茉希名の視界が取り戻された。見慣れた背中、唯の姿があった。何かを持って秋成に襲いかかっている。
唯さん、唯さん。
頭痛がひどい。割れるように痛んだ。自分の身体が壊れているのは分かっていた。それでいいと思っていた。
二人で何かを叫んでいる。ころせ。唯が左腕を押さえている。おやをころせ。
あーもううるさいな。殺すから黙ってて。
念じると声は簡単に消えた。呪いが身体に馴染み、完全に溶け込んだのだと思った。
「ま、きな。ごめん、ね」
茉希名が振り向くと、名美が仰向けになって巨大な鋸を手にしていた。唯が持っていたボストンバッグが血で汚れている。大口を開けたバッグの下で、名美が鋸を自分の首に添えた。
「ごめんね」
左に削り、右に削り、左、右、まだ血は溢れない。わずかに滲むだけだ。名美は泣きながら自分の首を切断していく。少しずつ溢れていく。
「待ってお母さんまだ」
空気が漏れる音が聞こえた。喉元が、口が、泡立ち血を吹いて命を吐き出している。茉希名はようやく名美の元に辿り着いてその瞳を見た。焦点が合っていなかった。
「お母さん、お母さん、お母さん」
名美は震えてただ宙を見つめている。傷口を押さえても真っ赤な血液が指の間から逃げていく。
「そうじゃない。そうじゃ、ないんだよ」
吹き上がっていた血液はやがて勢いを失い、なだらかに床へ流れるようになった。茉希名は脱力し、その場にうなだれた。視線の先に母の死に顔があった。
「私が殺さなきゃだったのに」
――女性の悲鳴が聞こえた。茉希名は一つ呼吸を置いてから顔を向けた。秋成が唯に馬乗りになって首を絞めている。泡を吹き、顔を赤らめて凡庸な顔を怒りに歪ませている。
そうだ、あっちもか。えーと。
ボストンバッグの中を漁っていく。武器というよりは解体道具ばかりで気に入る物がなかった。結局一番上にあった鉈を手に取った。二度素振りをしてから立ち上がり、ゆっくりと歩いていく。
必死に首を絞めている秋成の頭に鉈を振り下ろした。軽快な音が鳴り、肌色の頭部に刃が食い込んだ。引き抜くと、途中で白い物に阻まれて中身に到達していないことが分かった。もう一度振り下ろした。
死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。もう死んだかな? 死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。
ピンクの中身が弾けて花のように開いていた。あらゆる角度から打ち付けられた頭蓋には大穴が空いている。茉希名には孵化した卵のように見えた。
「ごめんね、ありがとう」
好きだった人の声が聞こえた。途端に眠気を誘われた。
お腹、空いたな。
家族で食べたカレーライスを思い出し、恍惚の中に意識を失った。
*
古びたマンションの一室は静寂に包まれている。その玄関の扉が開かれた。
「まだだ、まだ」
安男は力強い足取りで玄関を進んでいく。睡眠をとることで体調が回復していた。知らぬ間に誰かに介抱されて車の中でぐっすりと眠っていた。
玄関にはすでに嫌な臭いが充満していた。気付かない振りをしながら歩いていく。
「うおぇ」
リビングへの扉を開けた瞬間嘔吐した。見えるもの全てが赤かった。吐き出す物も無いままにひたすらえずいた。
「……茉希名、さんは」
ひとしきり終えると、足元の血溜まりにも構わず中を調べていく。家具は散乱し、壁や天井にも血液が飛び散っていた。不快を越えた激臭が鼻をつく。中に居るだけで気が狂いそうだった。
「死体は、どこだ」
複数の人間が血みどろで争っていたのは明らかだった。しかし遺体は見つからない。扉を片っ端から開けて調べていく。事件はほとんどリビングの中だけで起きていたと分かった。
「……やっぱり、ここか」
理解しつつも敢えて避けていた。その場所を通る時だけ、異常を超えた最悪の臭いが安男の脳を攻撃していた。乾き始めた血脂が床を走り、安男を導くようにその中へと続いていた。
血痕の付いた取っ手を引くと、そこは脱衣所になっていた。他の何処よりも巨大な血溜まりが、何度も擦られたような跡を残している。真っ赤な血の道が浴室へと繋がれている。
赤い水を足で弾き、ぴちゃぴちゃと鳴らしながら、その中へと近づいていく。扉のモザイク越しに赤茶色の山が見えた。震える手で扉を押し開くと、浴槽の中に肉が詰められていた。かつて人だったものが繋がりを失い、出来損ないの部品になっていた。腕と脚が折り重なり、色白な膨らみの上で真っ直ぐ伸びている。茉希名の黒目が安男を見ていた。
絶叫が浴室を震わせた。叫びながら膝をつき、赤黒い床へと倒れ込んだ。安男にはまだ新鮮な意識が残っていた。ただ全ての言葉を忘れたかのように、乳飲み子のように、いつまでも唇を吸わせていた。
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