第35話 21 茉希名

「唯さんも一緒に来るんですか?」


「そうだよ。私がお母さんを殺してあげるって言ったでしょ?」


「……まだ決まったわけじゃありません。その鞄の中身は何ですか」


「これ? 刃物だよ。人をバラせるでっかいの」


「唯さんは、外で待ってて下さい。盗撮して監視してればいい」


 鋭い視線で唯を睨んだ。唯の表情は変わらず、どこか遠くを見ている。ボストンバッグを重そうに担ぎ直した。


「りょーかい。しっかりやりなよ」


 金属音を鳴らしながら駐車場へと戻っていく。茉希名はすぐに視線を切って歩き始めた。


 もう誰も頼れない。自分で考えるしかない。

 自宅の玄関を前にして立ち尽くした。名美の折檻に怯えていた時より、ずっと大きく立ちはだかっている気がした。

 冷えた取っ手に手をかけた。鍵はかかっていなかった。何の抵抗もなく扉が開かれ、一歩だけ前に進む。慣れた玄関の匂いは別物になっている気がした。


「ただいま」


 誰に届けるつもりもなく声が出た。すぐに奥の方から物音が聞こえた。リビングの扉が開かれて何者かが遠慮がちに頭部を覗かせた。


「おかえり、なさい」


 秋成は弱々しく話すとすぐに頭を引っ込めた。慣性で扉が開かれてリビングの様子が目に入る。久しぶりの帰宅には何の感慨も無かった。ただここが自分の家なのだと認めるだけだった。


「茉希名さん、僕は」


「少し待ってて」


 リビングに入ってすぐ声をかけられた。顔を見ることが出来ない。未だに気持ちの整理がついていなかった。声に背を向けて自分の部屋に入っていく。落ち着く匂いがした。机上のクマのぬいぐるみと目が合ったため、少し笑って叩き落とした。

 考えは何も纏まっていなかった。状況を整理しようにもあまりに嘘が多すぎた。直接話して自分か感じたことだけを信じようと思った。


 そうだ、あれだけは。

 机の中から鍵を取り出してキャビネットの引き出しを解錠した。雑誌の下に隠された包丁を一番上へと乗せる。そっと引き出しを戻した。

 これでいい。殺すならこの場所がいい。

 何ら気負う事無く部屋を出る。もはや尻込みする理由も無かった。


「ただいま、秋成さん」


「おかえり、茉希名さん」


 秋成の正面に座った。


「仕事、早退したんですか」


「うん。茉希名さんが帰って来るって聞いたから」


「お母さんは?」


「僕の実家に居たから、もう少しかかると思う」


「実家……。そうですか。トオルさんからは何を聞きました?」


「トオル?」


「あの時、私を攫った人です」


「彼氏、じゃないんだね。はは。ホントにもう」


 自嘲している。それだけは分かった。


「ほとんど何も。ただ神成先生からは少し聞いたよ、黄色い目のこと。自殺した生徒の目が黄色かったって。生きてて、本当に安心した」


「そうですか」


 なんか、どうでもいいな。

 秋成がどこまで事情を知っているか、それは重要ではないことに気付いた。映像の中の秋成だけがずっと頭にちらついていた。


「前のお父さんの、話をしましょう」


「うん」


「本当に自殺、いや本当に殺してないんですか?」


「まさか。殺してないよ、直接には。名美さんだって、本当に落ち込んでた」


「……」


 話す内容が思い付かない。この男について聞きたいことなどほとんどない。

 私の汚物に欲情してましたか。

 最も聞きたいことは聞けるはずもなかった。


「お母さんは怪我してましたか」


「内臓が少し痛んでるみたい。仕事は休んでるけど歩くことはできるよ」


「秋成さんは何か、私に聞きたいことあります?」


「うん。僕はいない方が良かった?」


 即答できない自分に気付いた。ずっと鬱陶しいと思っていた。だが今それだけ答えるなら自分に嘘をつくことになると思った。


「お母さんを止めてくれたのには、感謝してます」


「そうか。ありがとう」


 何のありがとうだよ。

 もう秋成の顔を見る気はしなかった。茉希名は頬杖をついて電源が入っていないテレビの画面を眺めていた。


「どこか具合が悪いの?」


「え? ……少し頭が痛くて」


「薬ならあるよ。きっと良くなる」


 秋成はリビングに置かれた大きなタンスの上に手を伸ばした。常備薬の箱を開けて中から錠剤を取り出した。包装シートを一つにちぎって茉希名に差し出した。


「ほら」


「あの、そこに置いて下さい」


「そうだよね。ごめんね。水は自分で」


「水は、欲しいです」


「そっか。分かった」


 あの手に触れたらどうなるんだろう。

 背徳の欲求が湧き上がるのを感じた。傷付いたような秋成の顔は見ていると茉希名まで生気を奪われそうだった。今の秋成は嬉しそうな表情でコップに水を汲んでいる。

 一度くらい、触れてあげても良かったかな。鼻息で吹き飛ばした。


 ガチャリ。玄関の扉が開く音がした。秋成がすぐ目の前にコップを置いた。


「着いたかな。手伝わないと」


「待って!」


 目を丸くして振り向いた。何も分かっていない表情だ。その顔に無性に腹が立った。


「薬、ありがとうございます。座ってて下さい。私がやります」


 秋成は何も言えずに食卓に戻り、いつもの席に座った。頭を抱えて首を横に振っている。

 そうだ。それでいいんだ。

 茉希名は錠剤を取り出して口に放ると水を一気に飲み干した。コップの底が食卓に叩きつけられ怒鳴るように響いた。


 立ち上がって玄関へと向かう。その扉を開いた。嫌いで仕方なかった香水の匂いが鼻をつき、醜い厚化粧が目に入った。


「茉希名……」


 腹部を押さえる名美の顔色は白粉に隠されて窺えなかった。斜めに傾く名美の後ろで、見覚えのある老婆が義娘の身体を支えていた。

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