第34話 20 茉希名

「……どうして分かってくれないんだ」


 怪しく光っていた安男の両目が左の掌に覆われた。牛刀を握ったまま僅かに後ずさりした。


「唯、君もだ。きっと君は辛い経験をして精神に異常をきたしたんだろう。色々言って悪かった。僕が責任を持って君を治すよ」


「こいつ厄介だな。唯、何をしたんだ?」


「別荘に閉じ込めたぐらい。割とすぐ出られたと思うけど」


「妄想に分裂、倫理観の欠如。適切な人間関係を築けなかったんだ。気を許せる正しい相手が近くに居れば。……そうだ。唯、いや茉希名さんも、三人一緒で僕と暮らさないか? お金ならある」


「悪いけど、勘弁して」


「すいません、嫌です」


「僕が間違ってた。今は体調が良くないんだ。本当に傷付けるつもりは無かった。もう二度とこんな事はしない。約束するよ」


 牛刀をその場に落下させた。コンクリートに弾かれて甲高い音が連続して響いた。


「もう、しょうがないか」


 トオルが牛刀の元へと歩いていく。何かを喚いている安男にも構わずそれを拾い上げた。刃の鋭利さを確認するように眺めると切っ先をトオル自身へと向けた。止める間もなく腹部に突き刺した。



「あー……痛」



 黒ずんだ血液が刃を伝って垂れ落ちていく。トオルは自らを貫かせたその手に再び力を込めた。先ほどとは逆の力が加わり、濁った音を立てながら牛刀が引き抜かれた。抑えられていた血液が溢れ出して灰色の地面を赤く染めた。


「う、あ」


 安男は焦点の合わぬ瞳でトオルの腹部を見つめていた。口元を押さえて後退していく。身体を揺らして天を仰いだかと思うと後頭部から倒れ込んだ。マンションの駐車場に鈍く大きな音が鳴った。


「え?」


「あー、そういえば血が苦手だとか言ってたね」


「そう、なんだ。決死の覚悟だったんだけど。まあいいや。あー痛い。田浦さん、これが不死だよ」


 トオルは真っ赤に染まった凶器を持ちながら穏やかな表情だ。茉希名は大口を開けて呆けたようにその顔を見ていた。

 腹部で何かが動くのが見えた。深く抉られていた傷口がぶくぶくと泡立っている。その赤黒い溝を埋めるように、無数の黄ばんだ胞子達が肉の裂け目から湧き上がってくる。虫の卵のようなそれが傷口を覆ったかと思うと瞬時に立ち消えた。残されたのは、トオルの衣服に付着して未だに生臭く湿っている血の痕だけだった。


「見る前に気絶したからいいけど、無駄なリスクじゃない? そんなに大事な相手じゃないよ」


「田浦さんの為だよ。……田浦茉希名さん。君は親を殺そうと思ってるね。それ自体はいい。君がちゃんと考えて選んだなら否定しない」


 トオルは思い出したように右手の牛刀を見るとゆっくりと地面に置いた。粘ついた血脂を払うように手を振って茉希名に微笑みかけた。


「こういう化け物なんだ、僕は。君が親を殺したいのか、化け物になりたいのか。それは分からないけど、やっぱりおすすめはしないよ」


 茉希名は何も答えられなかった。緩んだままの口が金魚のように動いて空気を取り込んでいる。コンクリートの地面が揺れているような気がした。


「ごめんね兄さん、利用しちゃって」


「もう、いいよ。ここまで来たら、今は仲間ができるのも悪くないかと思ってる。茉希名さんにとってはそれも一つの正解かもね」


 二人見つめ合って微笑みを重ねた。

 兄妹で通じ合っているのを目の前にして、茉希名は自分が何も理解していなかったことに気付いた。

 やっぱり、人じゃないんだな。

 親を殺してみたいという欲望が先立ち、その後のことが見えていなかった。自分の全てが入れ替わり、今までとは全く異なる理の中で生きていくことになる。それも自分を実験動物のように扱いかねない人間たちから隠れながら。

 急に日差しが眩しく感じた。視界が揺れて何も頭に入らない。世界が回転して自分を攻撃しているようだった。


「ずいぶん人目に付くとこで動いちゃったな。そこら辺考えてる?」


「だいじょーぶ。準備万端だから。茉希名はどう?」


「あの、私少し考えたい」


「今更何言ってんの? ……なーんて。いいよ。待っててあげる」


 誰の物とも知れない軽自動車にもたれかかって体を沈めた。忘れかけていた頭痛が再び襲いかかってきた。まとまらない思考が尖った破片になって脳内を跳ね回っているようだった。


 どうしよう。私、まだ子供だったんだ。

 これ以上誰に助けを求めたらいいか分からなかった。ただ叫びたかった。


 何度も深呼吸を続けていると、暗く感じていた視界が明瞭になった気がした。結論はただ一つだと思った。

 親と話す。それ以外には思い浮かばなかった。


「お待たせしました。行きます」


「いい頃合いだね。じゃあ、行こうか」


 唯はスマートフォンから視線を外して茉希名を見た。晴れ晴れとした、爽やかな笑顔がそこにあった。


 ああ、唯さんはしっかり呪われてるんだ。それに、私も。

 すでに自分は取り返しの付かない所まで来ている。ようやくその事を自覚した。


「田浦さん」


 澄んだ呼び声に振り返った。いつの間にかトオルはマスクと帽子を身に着けていた。


「自分で決めるんだよ」


 茉希名を勇気づけるような視線。その手には自分自身の血を掃除した赤い雑巾が握られていた。

 どこにも味方はいない。茉希名はそうはっきりと理解した。


「ほうら。早く行くよ」


 唯に背中を押されて促されるまま自宅へ向かう。何度も通ったはずの道は底なし沼のように茉希名の脚を絡め取り、深淵へと誘っているように思えた。

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