第33話 19 茉希名
「……いつからトオルさんを愛するようになったとか、ありますか?」
「んー。やっぱり助けられた時かな。私に初潮が来て実験されそうになった時、兄さんが私を助けてくれた。虫も殺せないような人だったのに、その時は鬼みたいになって人間を滅多刺しにしてた。かっこ良かったよ」
「私にとっては、唯さんがヒーローでした」
「そう。私に依存してたもんね。そのままだったら扱い易かったんだけど」
「もう人は殺してみたんですか?」
「殺してないよ。まだね」
お腹空いたな。
空腹ながら食欲は無い。そんなちぐはぐになった自分の身体を意識していた。
「茉希名は、いつから私が変だと思ってた? 狂ってそうだなって」
「全然気付きませんでした。目の前で浮気されるまで。いい演技でしたよ」
顔も合わせずにする会話は冷たく味気ない。暖房が風を送る音だけが車内に響いていた。
「私、母が逆ギレして父を殺したものだと思ってました。その方が良かった。実の親を安心して軽蔑できた」
「実の親とか本当の親とか、そんなのは言葉遊びだよ。血縁なんて現代じゃ関係ない。制度があるだけ」
「私にそう思わせる必要があるんですね。唯さんの実験の為に」
唯の息が止まった。再び呼吸を取り戻すと、吐く息は荒く大きいものになっていた。茉希名はそれを白けた気分で聞きながら、ただ外を眺めていた。
「茉希名。これだけは本当。兄さんと仲良くしてね。お願い」
ずいぶん上手な懇願だな。でも、これくらいは信じてあげてもいいかな。
*
「もう来てる?」
「男の方は、ありますね」
マンションの駐車場に車を駐めた。使われているのが見たことのない箇所だ。駐車場には秋成の車がある。仕事を早退してきたようだ。
「うわ、やば」
車を降りた唯が焦った声を上げた。茉希名が同じ方向へ振り向くと、白く輝くスポーツカーが駐まっていた。粗末な駐車場に似合わぬ洗練されたフォルムは自らを強く主張しているようだ。
運転席から誰かが降りてくる。私服で分かりづらかったがカウンセラーの安男のようだった。その顔は普段の印象とは異なり険しく歪んでいる。眼光鋭く唯を睨み付けていた。
「茉希名さん。そいつから離れた方がいい」
「先生はどうしてここに?」
「安男は茉希名を助けようとしてた。事情も少しは知ってる」
「そいつの言うことは信じないように。さあこっちへ」
安男にいつもの朗らかさはなく、大声を周囲に撒き散らしている。隈ができたその顔は茉希名には病人のように見えた。
「神成先生?」
「何してる。早くこっちに来い。犯罪に巻き込まれるぞ!」
「安男、少し落ち着いたら?」
「うるさい黙れ。僕は彼女を守る。僕が守らないと」
頭を抱えて地面を見つめ始めた。茉希名は後ずさりして車の陰に隠れた。充血した瞳がその姿を捉えていた。
「……どうしてだ。どうして逃げる。僕はこんなにも君を心配してるのに!」
「押し付けないで下さい」
「私のする事は私が決めます。最近は少し不安定で、流されてたけど。今はもう違います」
「何の為にここに来た。まさか親御さんを殺す為とか言わないよな?」
「それを判断する為に来ました。話す必要があると思ったから」
「ふざけるな! そんな事が許されるとでも? 全部妄想だよ。そこの馬鹿の妄想だ。不老不死だって? そんな事ある筈ないだろ。全部気のせいだ。幻覚だよ」
「幻覚見てるのはそっちじゃない? 少し寝たら?」
「全部お前だ。お前がお前がお前が。幸くんを殺して、俺を騙して、次は人殺しでもさせるのか? この異常者が!」
「もしかして唯さん、この人とも付き合ってたんですか?」
「まあね」
「そうですか」
ああ、そういうことか。可哀想な人。
自分を心配しているのは本当だろうと思った。それでも心は動かなかった。
「何だ? 二人して俺を馬鹿にしてるのか。そうかよ。まあいいよ。でも家には行かせない。唯には渡さない。生徒は俺が守る」
手に持っていた鞄から牛刀を取り出した。陽光を鮮やかに反射して煌めいている。その鋭い切っ先が唯の瞳へと向けられた。
茉希名は咄嗟に安男の顔を凝視した。黄色など欠片も浮かんでいない真っ黒な瞳だった。
「先生、やめて下さい。そんなこと意味ないです」
「意味だと? 俺は俺がしたいようにする。さっき君が言った事だ」
「みっともないよ、安男。いい加減にして。包丁を下ろして」
「俺に命令するのか? 誰にでも股を開きやがって。幸くんもお前から誘ったんじゃないのか? そうして彼を傷付けたんだろ」
「最低ですよそれ」
反射的に声が出た。切っ先が茉希名に向けられた。
「神成さんと唯さんに何があったか知らないけど、今のあなたは最低です。人として終わってる」
「何でそうなんだ。何故誰も話を聞かない。そうすれば赦されるのに。俺が救ってやれるのに!」
右足をコンクリートの地面に何度も叩きつけた。軽い音が鳴るだけで振動すら伝わってこない。
地団駄を踏むって、初めて見たな。
茉希名は表情に出さないよう心の中で面白く思っていた。
「もう、いいかな」
細い呟きが聞こえた。
「マザコン野郎。いい加減にしろ。茉希名聞いて? コイツ母親とヤってるんだよ」
「へぇ」
「あんたがカウンセリング受けたら? いやホントに。色んな意味で」
「ちょっと唯さん? さすがに」
安男の顔色がみるみると変化していく。黄色かった顔が赤らみ、真紅になり、やがて青ざめた。牛刀を握る手を震わせながら唯を見つめている。荒く呼吸をしながら歩み寄ってくる。
「もう見てられない!」
誰かが駆け込んできた。色白で儚げなその人物はトオルだった。昨日死んでいたことが嘘のように美しい容姿だ。
やっぱりモデルさんみたいだな。
茉希名は家に置いてあるファッション誌を思い出していた。
「お前か。お前が兄貴とかいう。お前も茉希名さんをたぶらきゃちて」
「ぶふ。あ、ごめんなさい」
腰を落として隠れたが間に合わなかった。頭を出して覗くと、瞳孔の開いた目が真っ直ぐに茉希名を見据えていた。
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