第32話 18 茉希名

 あはは。あはははは。あはははははは。焦ってる焦ってる。辛いね。苦しいね。奥さんはどうしたのかな。そろそろ死ぬ? 死んじゃうの? いつもの澄ました顔はどうした。おい眼鏡。麻酔はどうしたんだよ。一人じゃ何もできないのか? やめろ糞が死ね痛い。痛いよ。あー痛い。イタイイタイイタイイタイイタイタイタイタイタイタイタイ助けて助けて。たすケて心臓心臓たすけてたすけてタスけてころすころすころすころすころすころすころすころすおえぇ。治らなくていい。もういいから。掻き回さないおえぇ。痛い。やめて。痛いからやめてくださもう治らないでもうもうもうもうもうもうもうあっ――――



 ……気を失っていた。もう限界だ。これ以上は保たない。

 何かが顔を這っていた。もぞもぞとした不快な感触は不規則な軌道を描いて首筋へと移っていく。私はすごく気になったので首を上げて見てみました。そこに居たのはきいろのクモさん。あんまり大きくないけどすっごい毒があるんだって。怖いよね。じーっと見ていると向こうもわたしを見ている気がしました。かわいいクモさん。わたしを殺してくれないかな。

 首を休めて再び天井を見上げた。先の僅かな運動で首の筋肉が限界に張り、体内から逃げだそうとするように痛んだ。ははは。

 肌をなぞる感触はいつの間にか消えていた。そういえばあの蜘蛛は巣立つ前に親の体液を吸って成長するらしい。素晴らしいね。親の愛だね。皆死ね。

 でも、それはいいかもな。子供を産んで自分は死ぬ。美しいじゃないか。人間もそうあればいい。おっぱいの代わりに血でも吸わせたらいいんじゃないか。皆死ねばいい。全員死ね。殺せ。殺せ。殺せ。透瑠。透瑠。君は生きて――



「うぇ」


 胸焼けに目を覚ました。胃液が昇ってきたが反射的に飲み下した。酸の据えた臭いが鼻をついた。

 茉希名は呆然としてただ何度も大きく呼吸をする。血の中に泥が混じり、全身が黒く濁ったようだった。とにかく身体を他の物と取り替えたかった。

 気が付けば胸を押さえていた。鋭い痛みがある。自分の心臓が自分を傷付けているようだった。もう眠る事などできないと思った。


「また夢、見たんだ」


 声の主は運転席に隠れて姿が見えない。しかし確認するまでもなかった。


「最悪の、夢でした。あんな、ひどい」


「ふーん。私は見たことないんだ。その人も一回会っただけだし」


「この人は、どうしたんですか?」


「さあね。気付いたら居なくなってた。どんなに探しても見つからない」


 ワゴン車は規則的に地面を鳴らしながら山道を走っていく。まだ日は落ちていないようだった。短い睡眠にしては長い、果てしない拷問だった。茉希名は粘度のある冷たい汗を拭った。


「スマホはそこに置いといたよ。あと着替えも」


 横を見ると唯の言う通り、綺麗に畳まれた洋服の上にスマートフォンが置いてあった。しばらくの間触らせてもらえなかった画面には無数の通知が入っていた。


「かなめ……」


 連続した不在着信の他に、自分を心配するメッセージが機能の限界を試すように敷き詰められている。その文字はすぐに読めなくなった。湧き上がってきた熱い涙の奥に、丸顔な友人の笑った顔が浮かんだ。

 声を殺して咽び泣いた。泣かない方がいい、止めようと思うたび、意思に反して熱いものが込み上げてくる。茉希名にはそれが嬉しかった。自分がまだ正気なのだと信じる事ができた。


「ねえ、やっぱり病院行こうか? 心配になってきたよ」


 ようやく呼吸が落ち着いてくると、運転席から唯がちらりと振り返った。

 またご機嫌取りか。そもそもあなたのせいで。

 一瞬考えたがすぐに霧散した。唯が何を考えているか、そんな事は自分にはもう関係ないと思った。


「大丈夫です。今どこに向かってるんですか?」


「目的地は未定だよ。とりあえず駅に向かってる。要ちゃんと会うんでしょ、茉希名が決めて。お義父さんは仕事だったし、お母さんは別の家に居たみたいだから少し時間かかるって」


「そうですか。そのまま進んで下さい」


 頭が痛い。それが号泣したことによるものなのか、交通事故の影響なのか、もはや分からなかった。

 今日って、日曜日だったんだ。

 再び画面を見てようやく知った。茉希名は思ったことをそのまま打ち込んだ。


「心配かけてごめん。私は大丈夫だよ。今から会いたい。要の家の近くのコンビニで」


「絶対行く」


 すぐに届いた返信に頬が緩んだ。要にしては珍しい、飾りっ気の無い短文が何よりも強く茉希名の心に響いた。自分のそっけない文面が申し訳なく思うも続きは送らなかった。要の存在が自分にとってどんなに大切だったか、文字で伝えることはできそうになかった。

 大きく深呼吸をしてから、畳まれていた洋服をゆっくりと身に着けていく。大型のワゴン車は揺れることもなく緩やかに山道を下っていった。



「ここです。駐めて下さい」


 唯は何も言わずに車を駐めた。窓からは不安そうに周囲を眺める要が見えていた。ワゴン車を降りると少しよろめいたが構わず前に進んでいく。すぐに要が気付いて茉希名の元へと駆け寄ってきた。


「茉希名。茉希名。どうして。急にいなくなって」


 茉希名の右手を温かい両手が包んだ。要の百面相を見ていると自然と笑みが漏れた。喋ろうと思っていたことが全て溶けて消えていった。


「うん。ちょっと遊んでたんだ。遊びすぎちゃった」


「嘘でしょそれ。なに、泣いてたの? 誰に泣かされたの?」


「要、ありがとう、ごめんね。大好きだよ。私学校を辞めると思う。元気でね」


「なに、なんなの。教えてよ。あたしにも分かるように説明して。馬鹿にしないで!」


 コンビニの駐車場に響いた悲鳴はあっさりと空に消えていく。茉希名はそれでもずっと微笑んでいた。


「もうここには居られなくなったんだ。遠いところで暮らすの。要は可愛いから、きっとすぐに彼氏できるよ。だから寂しくない」


「そんなのいらない! あたしは、あたしは……」


「ねえ要。大事な事を聞くよ。図書館の司書の人から貰ったペットボトルのお茶、飲んだ?」


「はあ? ……飲んだけど、それが何? 何も無かったよ」


「そっか、ありがとう。じゃあ、元気でね。また連絡する」


 大粒の雫を次々にこぼすその顔は、見ているとどうしても頬に口づけをしたくなった。茉希名はそれだけは死んでもしてはいけないと思った。親友を貶める行為だと思った。


「あたし、待ってるから。茉希名が全部私に話してくれるのを」


「うん。私も。いつか話せるようになったらいいな」


 エンジン音を放ち続けているワゴン車へと歩いていく。一度だけと思って振り返った。要は唇を固く締めて茉希名を見ていた。その顔を見ている事は出来なかった。すぐに向き直って車に乗り込む。サイドミラーには地面にしゃがみ込む要の姿が映っていた。


「出してください。私の家に行きましょう」


「うん。少し早いけど、待ってればいっか」


 見慣れた街の景色が流れていく。感慨など無かった。ただ親友を傷付けてしまった自分への憤りに耐えるだけだった。


「唯さん」


「んー?」


「要に血を飲ませましたか?」


「飲ませたよ」


「そうですか」


 それ以上聞く必要は無かった。それだけで全身に疲労が溜まった気がした。頬杖をついて窓の外を眺める。何の変哲もない穏やかな日常が流れているだけだった。


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