第31話 17 茉希名

 唯が何やら操作すると画面に知らない部屋が映し出された。ベッドがあり、人が座っている。監視カメラのような俯瞰した映像だ。他には本棚があるだけで簡素な部屋だと思った。

 ベッドの上で壁にもたれかかっているのは男性のようだ。画質が悪く見えづらいが、何かを顔に押し当てている。逆の手は股間に添えられ上下に動かされていた。

 理解したくないと思いながらも凝視してしまう。男性はマスターベーションしていた。黒ずんだ陰茎を左手でしごき上げている。気になったのはそこではなかった。

 白い何かを顔に当てているその男性には見覚えがある。薄くなった頭、凡庸な顔つき。その顔から手が放された。

 秋成。おとうさんだ。右手の上、白い四角の中には赤黒い染みがある。何だ。アレは一体何だ。


「あは。あれ茉希名のだよ。茉希名が使ったナプキン」


「おぇ」


 茶色の吐瀉物が溢れ出した。一度では足りず、再び酸の激流が喉を焼き体外へ排出された。純白のベッドが茶色に染まりすぐに異臭を放つ。その臭いでもう一度嘔吐した。


「そうだよね。キモいよね。分かるよ茉希名」


 唯がベッドの上に昇った。吐瀉物が見えていないかのように四つん這いで茉希名に近づいてくる。その汚物に塗れた手で茉希名の右頬に触れた。



「ねえ茉希名。あなたのお義父さんを殺してくれない? 代わりにお母さんを殺してあげる」



 意識が遠のくのを感じた。ふらりと揺れるも気を持ち直した。食いしばると何か柔らかい物が噛み潰された。


「汚してすみません。うぇ、まだ着替えありますか?」


「あるよ。でも先にシャワー浴びてきたら。あ、動けるかな?」


 唯の肩を掴んでベッドから降りる。関節が軋むように痛むが人の手を借りれば十分に歩けそうだった。

 肩を借りながら知らない家の中をゆっくりと歩いていく。今は、早く綺麗になりたいということ以外考えられなかった。


「ありがとうございました。一人で大丈夫です」


 バスルームの前に着くと唯から離れて中に入った。シャワーを出してすぐに下に潜る。その冷たさに身体が跳ねた。しかしおかげで最悪の気分が少し吹き飛んだような気がした。

 何も考えずに身体を流す。色白な肌に浮かぶ黒い染み、左の脇腹を無意識に押さえていた。


 私、何してんだろう。

 バスルームを出ると笑いが込み上げてきた。恋人だと思っていた唯が、今は。頭の中で自分と唯の関係性、唯への想いを言葉にしようとしても出来なかった。ただ可笑しかった。微笑に身体を揺らすと疼くように頭の中が痛んだ。

 脱衣所にはバスタオルと着替えが置いてあった。先ほどの物とは色違いなピンクの寝間着のようだった。強く顔に押し当てたバスタオルはいつもの唯とは違う匂いがした。


「こっちだよー」


 軽い声が聞こえてきた方向へと歩く。ざらざらとした白い壁を辿っていく。先ほどと同じような生活感の無い部屋があった。唯がベッドに腰掛けて自分を待っていた。


「色んな家を持ってますよね」


「親が金持ちだったからねー。その遺産でね。最悪のクズだったな」


 遠い目をする唯を見て不思議と心が落ち着くのを感じた。今なら正直に話ができると思った。


「唯さんの事、教えて下さい。どんな親だったんですか?」


「医者だよ医者。母親は看護師。代々続く家だったらしいよ。もう無いけど」


「医者の父親が嫌いだったんですね。トオルさんで実験してたから」


 完全な無表情が茉希名を見つめた。


「そうだよ。……あいつは警察を恐れてた。だから自分の子供を使ったんだ。兄さんは私に何も言わなかった。でも親が何かしてるのは感じてた。私は途中まで何も知らずに、日に日に弱っていく兄さんをただ心配してた」


「唯さんは何もされなかったんですか?」


「別の使い方を考えてたみたいだよ。資料によれば何かを産ませたかったみたい。身体を弱らせたくなかったんじゃないかな」


 きっと唯さんは、父親によく似ている。

 思っても口には出せなかった。


「……母親は、母親はどうだったんですか」


「あー、うん。身体が弱くてね。悪い人ではなかったかな。でもあのクズに逆らえなかったみたい。結局一緒だよね」


 茉希名は唯の隣に座った。ベッドに置いたそれぞれの手は寸前で触れ合わなかった。


「茉希名はどうなの? お父さんの事、今はどう思う?」


「おとうさんて、どっちの」


「血縁関係のほう」


「……自殺する前に話して欲しかった。怖くても。そしたらこんなに傷付くことなかった」


 二人で天井を見上げた。染み一つ無いつまらない天井だった。


「親ってなんなんでしょうね。親がクズだと人生終わりじゃないですか」


「子供作るってエゴだよね。でも逃げようと思えば逃げられるよ。その道が見えにくいだけ」


「唯さんは、逃げられましたか?」


「いや、まだだよ。今でも憎くて仕方ない。でもどっちにしろ他人は他人。家族なんて近代の幻想でしょ」


「唯さんって、寂しい人ですね」


「私の事、変だと思う?」


「変ですよ。おかしい。でも、やっぱり可愛いです」


 自然と顔が綻んだ。伝染したように唯が笑った。窓から差す日差しが心地良かった。


「トオルさんは、家族じゃないんですか?」


「あの人にとっては私は妹だから。だから一緒に居てくれてたの。愛想を尽かされちゃったけどね」


「唯さん、キスしませんか」


 まん丸の瞳が茉希名を見つめた。悪戯が成功し、抑えようとしてもどうしても笑みがこぼれた。

 慎重に顔を近づけていくも唯は逃げようとしない。そこに本心が見えたような気がした。

 そっと重ねるだけの長い接吻をした。その間に茉希名は自分の鼓動を感じなかった。これで終わりだと思った。


「茉希名」


「私、最後に親に会いたいです。会って許せるかどうか確かめたい。それでどうですか?」


「……分かった。準備するね。そんなのじゃなくて、可愛いお洋服も」


「はい。それと要に会いたいです。スマホ、返してもらえますか?」


「あー、今ここには無いんだよね。しばらくかかるけど、待ってて」


 唯が部屋を出ていく。茉希名は目をつぶった。頭部に等間隔で鈍い痛みが襲ってきていた。耐えかねてベッドに横になった。布団も無いベッドは埃っぽい。それでも気持ち良かった。暖かい日差しを浴びながら、何を心配することもない穏やかな眠りについた。

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