第14話 安男 五
「私も、幸くんがどうして飛び降りてしまったのか、本当の事は分からないんです」
か細い声で巴恵が話す。小さい身体に残っていたエネルギーを全て絞り出してしまったかのようだ。
「相手の名前については言えません。幸くんだけの事じゃなくて、まだ生きてる人との約束ですから」
「……そうですか」
安男は様々な想いが去来してそれしか言葉が出せなかった。
「相手の人を襲ってから、私たちは会話もほとんどしてなくて。幸くんは何があったかだけを話して、以来私を避けているようでした。神成先生とは違って、幸くんに聞いても何も答えてくれなかったんです」
「それは……そうなんですね」
「はじめは私もあばたたかねさん、でしたっけ。その子が相手なんだって。どうやって謝ろうかって考えてたんです。でも、レイプされたって人が直接訪ねてきて、こう言ったんです。お互いに知られたくないことだからこのまま秘密にしよう。自分も訴えたりはしない。ただ、幸くんの瞳に何か変な事が起こったらすぐ自分に電話してくれって」
「瞳、ですか? それは、どういう」
「私にも分かりませんでした。でも幸くんの反応を見たら、襲った相手だっていうのは事実だとはっきり分かりました」
「……」
「……あのとき、久しぶりに幸くんが肩揉みをしてくれたんです。座ってる私に優しく触れてきて、骨ばかりの肩をほぐしてくれて。何も話してはくれなかったけど、ああ、ちゃんと良くなってるんだな。神成先生のおかげだなって」
巴恵が目を閉じると涙が一粒こぼれた。安男はその雫が流れていくのをずっと目で追いかけた。
すぐに巴恵は呼吸を戻した。
「それからすぐのことでした。私がお礼を言おうと思って幸くんの顔を見ると、瞳が黄色くなってたんです。私がそれを言う前に、幸くんは頭を抱えて苦しみだして。何か声が聞こえているみたいでした。一人でうるさい、うるさい、だまれって叫ぶんです」
「黄色……、声……」
「はい。それで私はどうすれば幸くんを助けられるかと思って、相手の女性のことを思い出しました。一応携帯に番号を入れていたから、それですぐに電話をかけました。すると、分かった、すぐ行く、とだけ言って電話が切られたんです。それからは一瞬でした。幸くんが気になって振り返ると、包丁を握ってこちらを見ていたんです。ものすごく怒っているような表情で、あんな幸くんを見たのは初めてでした。私が驚いて固まっていると、幸くんがすごい勢いで外に走って行きました。窓が開いていて、あとは、その……」
「ありがとうございました。本当に」
巴恵はいよいよ生気を失って息も絶え絶えだ。
その様子を眺めながらも、安男は混乱する頭を落ち着かせるのに必死だった。
黄色の瞳? 声が聞こえる? 何を言ってるんだ。でも巴恵さんがおかしくなったとも思えない。あまりに詳細で真実味がありすぎる。ただの自殺じゃなかったのか。ただの自殺ってなんだ。そんなものは無い。
深呼吸を何度も重ねるうちに思考も落ち着いていく。安男が冷静さを自覚しはじめたとき、巴恵の顔色も少し赤らみを増した。
今の話で気になった所があった。
「その包丁っていうのは警察は見つけていないですよね。だから事件性のない自殺だと判断されたはずです」
巴恵ははっとした表情で安男を見る。
「そうです。忘れていました。幸くんが飛び出して行った後、一度だけ下を覗いたんです。もしかしたら大丈夫かもって。でも見たら下は……真っ赤で、すぐに中に戻りました。その時、幸くんの近くに女の子が居た気がするんです。もしかしたらその子が何か知ってるかもしれません」
安男には巴恵の言葉が途中から聞こえていなかった。
茉希名さんだ。絶対にそうだ。どうして彼女が関わってくる。
急に青ざめた安男を巴恵が心配そうに見つめている。
安男は、不幸な少女がここで浮かび上がってきたことに言い知れない不安を感じていた。
*
カタカタ。カタカタ。
一人で住むには広い部屋に、キーボードの音だけが木霊している。
十月に入り、暖房をつけなければ徐々に手がかじかむようになっていた。
巴恵が話した内容を忘れないように、安男はその内容をパソコンで記録していた。
茉希名さんが事件に関係していると決まったわけではない。どうして俺はそう思ったのだろう。
自分自身に反駁するも、確信に近い閃きを打ち消すほどの力は無かった。
状況から言えば、諸々の訳を知っていそうなその相手の女性が怪しすぎる。事件性を消し、自分に累が及ばないように包丁を持ち去ったのだろうか。しかし時間的に早すぎるか。それにその女性が立っていたなら巴恵さんも気付いたのではないか。
何らかの理由で茉希名さんに包丁を回収させたのか。それとも茉希名さんが。
煮詰まってきた思考にため息をついた。安男は椅子にもたれて無駄に豪華な照明をただ眺めた。
ぴーんぽーん。
こんな時間に誰だ。安男は苛立ちを一呼吸で鎮めて玄関へ向かった。歩きながら、思い当たるのは一人しか居ないと気付いていた。
「ごめん、また勝手に来ちゃった。大丈夫だった?」
「うん、大丈夫だよ。入って」
付き合ってから四週間経つ彼女が安男の部屋を訪れた。
奇しくも交際を始めたのは幸の命日であったが、そのことを安男が知ったのは翌日のことだった。
「あ、今日は散らかってないんだね」
「いつもじゃないって。あのときは疲れてたから」
「うん、頑張ってたもんね。お疲れ様。食べ物買ってきたけど、もう食べた?」
「いや、まだ。食べよっか」
テーブルに惣菜を並べ、二人で適当につまんでいく。
外食がほとんどの安男にとって、こういった食卓は珍しいものに感じた。
「ご飯はありがたいけど、突然来るのは勘弁してよ」
「えー、サプライズってやつだよ。安男は私が来て嬉しくない?」
「そりゃ嬉しいけどさ。事前に連絡があった方がもっと嬉しい」
「えー。考え方違うなあ。あ、お酒買ってくるの忘れちゃった」
「もう、しょうがないな。夜道を歩かせたくもないし、俺が行くよ。唯は何がいいの?」
「んー、チューハイ。かわいい奴」
「なんだよそれ。分かんないけど分かった。ちょっと待ってて」
普段の賢そうな振る舞いに反して、自分にだけは甘えてくる唯が安男は可愛く思えた。
唯は玄関にまでついてきて、靴を履く安男を近くで見ている。
「じゃあ、大人しくしてるんだよ」
「えー、どうだろう?」
悪戯っぽく笑って手を振る唯を見て、安男は頬を緩めた。
作り物のように美しい笑顔が扉の閉止を見届けていた。
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