にんげんレース
田宮・こおりもち・二郎
開幕
第1話 世界は出会いの物語
俺が目を覚ますと透明なガラスの檻に入れられていた。
八本ある腕を動かして、檻をたたいてみるものの固くて壊れる様子もない。
ガラスにうっすらと自分の姿が映り、ため息を深くつく。
そこにいたのは八つの目、八つの足をもつ小さなクモだった。
自分の弱そうな姿を見なくなくて、俺は周囲を眺めてみることにした。
底知れずどこまでも広がるかのような通路に、透明なガラスの檻が無数に置いてある。とても数えられるほどの量ではない。
まるで棺でできた森ようだ。
よく見ると檻の一つずつに、色々な生き物が入れられている。俺のような虫だけでなく、ところどころに動物もいる。大きい生き物でいうと猪や狼もいる。
どの生き物もその透明の檻から出ることができないのか、かりかりと檻をひっかく音を立てる。みんな必死なのだろう。
何故、俺はこんなところにいるのか。
殺されないように様々な生き物から逃れ、住みやすい場所を探して移動をしていたんだ。そして、ふと意識が遠くなったと思ったら、こんなところに閉じ込められている。
他の生き物の連中も、似たようなものなのだろうか。
周囲を見渡してしても、誰も透明な折から抜け出した跡がない。そう考えると、これは容易に壊せるものではないようだ。
何かしらの方法で俺たちを檻に入れた存在は、かなりの力を持つものだろう。
俺達は一体、何のためにここに集められたのだろうか。
少なくとも、俺達を檻に閉じ込めた存在はどこかにいるはずだ。
簡単に考えるならば、保存用の食料として閉じ込められたとも考えられる。
だが、ただの保存であるならば、こうして生かしておく理由もないだろう。そうなると、俺達を捕らえた者の目的が分からず不気味だ。
そいつを出し抜くには機会を待たねばならない。生き残るためには時には勇気をもって待つ必要がある。今は休んで力をためて、何らかの理由で檻を開けられた瞬間に飛び出すべきだろう。
他の生き物たちの様子を見ると、透明の檻の中で暴れまわる生き物の方が多かった。
唐突な理不尽に怒りを感じる気持ちは分かる。
俺がそうしてしばらく休んでいると、変化は上空から現れた。
そこにいたのは宙に浮く光り輝く球だ。それが大きい台座とともに、ごうんごうんと音を立てて降りてきた。
多くの生き物が呆然としている中、光る玉から声が響いた。
「やあやあ、ここに集った一億の命の皆さん。こんにちは」
光の玉から発せられた声は、少女のように涼やかで軽やかな者だった。
「ボクはレースを管理する司会みたいなものでね……、と言ってもピンと来ないかな。まあ、分かりやすく言うと、神みたいなものさ」
光る玉の声は、話し方も幼く声に威厳が感じられない。
けれど、ここにいる全ての生き物を集めるだけの力があるのだ。
みんなは、大人しく光の玉の次の言葉を待った。
「それでね、君らには障害物競争をやってもらうよ。この矢印がある方向に、ずっと進むんだ」
長く広い通路を見ると、いつのまにかに赤い矢印が空中に浮いている。
この矢印は一体どういう仕組みなのか理屈は分からないが、神と言うだけあって不可思議な現象をおこせるものだ。
とりあえず、この矢印の指示どおりに進めばいいという事なのだろう。
「それで、ゴール地点には、この台座と同じものがあるよ。それに乗ると僕が下りてきた時と同じように台座が昇っていって、登り切れれば優勝さ。ここに集まった一億の命で、たった一つの勝者を決めてもらうのさ」
一億分の一。俺が勝つのは、どう考えても無理だ。
隣の檻を見ると、俺の体より何千倍も大きい猪がいる。
こいつは俺の事なんて見えてもいないだろうし、比喩でもなんでもなく、こいつに鼻息ひとつで、俺の体は吹き飛んでしまう。
「優勝したら特典があるよ。勝者は何と……人間になれます」
ざわり。
周囲の空気が波打つように変わった。
獣は吠え、虫は鳴いた。怒号のような歓声が広がる。
無理もない。人間といえば地上の覇者ではないか。
百獣の王の獅子すら見世物にし、その力で数多の生物を絶滅させてきた。
彼らは動物の中でも非力なはずの腕力でうまれながらも、その叡知で海の中すら行くことができ、空はおろか月にまでも足跡を残す。
命を品種という名で作り出して、それで美味くないからと投げ捨てる。
大地を割り、海を埋め、枯れる事のない天まで届くような塔を作り続ける。
俺たちにしてみれば、目の前の光の玉と何ら変わることのない力のある存在だ。
人間になるということは喰われる側から、喰う側にまわれるのだ。
あらゆる生き物が、ぎらりと目を光らせた。
「そして優勝者以外は、命が尽きます」
再び割れんばかりの叫び。ただし今度は悲痛な声も混じっている。
無理もない。俺達のような弱い生き物には、死ねと言っているようなものだ。
「泣いても笑ってもレースが始まることは決まっているよ。ここから幕を開けるのはは、君らの
怒号がする、覚悟の足音がする。希望への
一億の生き物のあらゆる感情が、熱気とともに混じり合っていくようだった。
「そろそろ始めるよ、じゃあ君らの檻を開けるからね。……3、2、1」
透明の檻が蓋を開ける様に、ゆっくり宙に浮いていく。
「スタートっ!」
光る玉の号令とともに、獣や虫は、我先にと矢印の方向に向かって走り始めた。
上がり始めた透明のガラスに映る自分の姿をもう一度だけ見る。
機能的な体ではある。八本の足はどこからどこに行くのにも一瞬で対応ができる。この八つの目はあらゆる敵を見ることができる。
対して人間の体は不便だろう。手は二本しかない。目も少なく死角も多かろう。
だが、俺は人間になってみたい――ずっと、いいと思っていた。そうして暗闇の中からじっと人間を観察してきた。
仮に転生したとして、俺は誰より人間として振舞うことだってできるはず。
人間になるのは、――俺だ。
だが俺の体では、ただ走るだけでは勝てない。
万が一、いいや億が一、勝てるとするならばどうすればよいのか。
それこそ貧弱な身体で地上の覇者となりえた人間を参考としよう。
人間はどうやって他の生き物に勝ってきたか。――それは知性だ。知性こそ人間たるに必要なものだ。
それがあったからこそ、人は夜でも光る都を作れた。
知識が必要ならば、まずは情報を集めよう。
レースの管理者である光る玉は、ルールを説明した後もそこにたたずんでいる。
あいつに話しかけてみよう。何か情報が手に入るかもしれない。可能性があるだけでも、やってみる価値はある。
こいつは一体どんな奴で、どんな感情を持っているのか。
矢印の方向へ進む他の生きたちに踏みつぶされないように、流れに逆らいながら俺は光の玉に向かった。
多くの生き物の足元を予測して、進んでは立ち止まり。飛びのいては、風に流されて、それでもやっとのことで優勝台に辿り着いた。
「よう、司会も大変だな」
俺は、あえて気軽に声をかけてみた。
「まあね、キミはこんなところで油を売っていていいのかい?」
光る玉は俺の不遜な言葉に、気にした様子もないようだ。
神とも名乗りながら威厳をだしていないことから、畏まってないほうが話をしやすいだろうと踏んだのは間違っていないようだった。
「先は長そうだしな」
これは単純な予想だ。これだけの広大な通路に莫大な数を集めたのだ。それほど短い距離ではないだろう。
「そうだね。具体的には言わないけど、かなり長いよ。今回は何日かかるかな」
これだけ足の速い動物が多くいて、何日という単位となるならば相当な距離だ。
「退屈なんだよね。……でもみんなゴールに着いたら驚くから、それをみて留飲をさげよう」
俺は矢印の通路とその背後を見た。
矢印の方にも道はあるが、その後方も奥行きが見えないほどの道がある。
「ここがゴールなのか」
俺は思いついたことを口にした。
「そうさ、よくわかったね。この通路は長いトラックになっていてね、最後にここにたどり着くというわけさ」
なるほど。
光る玉は、俺をじっと見下ろしているように感じる。
「数えきれないほどレースをやっているとね。時折、君みたいに頭を使う奴がボクに話しかけてくることがあるんだよ。そんな奴にはサービスをすることにしてるんだ」
光る玉は、規則的に点滅している。表情はわからないから、今どんな気持ちであるのかが分からない。
「さあ、キミは何を知りたいんだい。一つだけ答えてあげよう」
何となく空気が変わった。背後に俺の捕食者がいるようなそんな気配。
ここは逃げるべきタイミングかもしれない。
いつでもこいつは、何の苦労もなく俺を殺せる。
けれど、ここで引いても俺の未来はどうにもならぬだろう。
だから立ち止まり、何かを問いかけることにする。
だが、何を聞けばいい?
このレースの障害物の情報、近道、敵の情報、聞くべきことは幾らでもある。
人間なら、賢いとされる人間という生き物なら、何を聞くのだろうか?
「あんたは、どんな奴なんだ」
人間なら、相手と話をする時には相手に興味を持っていた。
そうだ。こいつが何を考えているかはとても大事だ。
こいつの発言が信じられるか否か。そもそもの問題でもある。
俺がそう言うと、光る玉はしばらく沈黙した。
「キミ、そんな質問でいいの?」
「ああ、あんたの事が知りたい」
「それとも勝つことを諦めたかい? これだけ生き物がいれば数パーセントはそういう子たちもいるけどね」
俺が視線を動かすと、確かにほんの少しその場に立ち尽くす生き物たちもいる。
「いいや、俺は人間になる」
「賭けてもいい、キミは優勝できない。奇跡は起こらないんだよ、小さいクモ。ボクはどれだけのレースを見てきたと思うんだい」
光る玉の言葉は重い。確かに気持ちだけでは現実は変化はしないだろう。
少しだけ言葉を詰まらせると、光る玉はため息をついたようだった。
「だいたいレースの参加者に言いたくはないけど、そんなに人間っていいものかな。キミたちにとっては、それは良いものなんだろうけどさ」
光る玉は取り繕うような早口で、そんなことを言った。
「人間が生き物のなかで強いといったって、結局は
玉の言葉に、俺はふと違和感を覚えた。
「あんたは違うのか」
「そうだね。ボクの話だったね」
光る玉は一瞬沈黙したが、とつとつと語り始めた。
「ボクは生まれたときから、ずっと永い間こんなことをし続けている。五千年より前にはいたね。それでなんというか、数えるのも嫌になる単位のレースを実施してきたんだよ。地上をじっと眺めては、命を集めてきてレースを実行する。……それだけさ」
「他に仲間とかは?」
「同じようなレースの管理者は他にもいるけれど、ボクは好きじゃないよ。あんな悪魔は立場が同じだとしても仲間なんて言いたくもない」
光る玉の口調に嫌悪が滲んでいる。随分と仲が悪いようだ。
だとすると、この光る玉はずっと一人でいたのだろうか。
俺はそんなにも長い時間を一人で居続けることを少し想像してみる。
誰もいないのは、苦しいだろうな。それこそ想像することもできないくらいの長い時間か。
こんな時、人間ならなんと言うだろう、何をするだろう。こいつに何をしてやれるのだろうか。
「なあ、もし俺でよければ友達になろうか?」
俺は前足をあげてみる。
思いついたから言ってみた。人間は友達ができると一人ではなくなるという。
「……腹が立つね。本当に腹が立つよ、何でキミなんかに同情されなきゃならないんだい。ボクをキミのようなほんの一瞬の命しか持たない虫けらと一緒にしないでくれるかな。ボクはもっと高尚で、高次元の存在なんだよ。あらゆる生き物が望みながらも到達できない不老不死を……永遠をボクは持っているんだ」
赤く光り始めた玉は、おそらく気分を害したのだろうか。
低い声で俺を威嚇している。
「もし俺が人間なら辛いな、と思っただけだ」
「人間ですらないくせに」
「ところで、あんたの名前は」
話題を変えようという意図もあったが、そもそもこの光る玉は人間的だから名前の一つもあるのだろうかと思い、問いかけてみた。
「……それは二つ目の質問だから、話は終わりだよ」
怒らせてしまったのだろう。やはり人間のようにはいかないな。
相手の事を考えるとは、難しいものだ。
俺は玉に背を向けて、レースを始めようと一歩踏み出した。
「……キミが勝てない理由を教えてあげるよ」
背後から玉の声が聞こえた。
「今回のレースには、普段のレースよりはるかに激戦が予想されるんだ。優勝候補が四匹いてね、本来は、それぞれが圧倒的一位で優勝できる実力を秘めているんだ。そして、その中の一匹にキミは決して勝てない」
俺は目の端で玉をみていると、緑色に点滅している。
やはり、こいつの気持ちはまだ分からない。
「でも行く」
俺は軽く前足をあげて、軽く謝意を示した。
「ふん。それならせいぜい、足掻いて足掻いてボクの前まで来ることだね、そしてキミがどんな死に様になるのか見ていてあげるよ」
だから、ゴールまでたどり着いて見せなよ。
そんなわけもないだろうに、何故かそんな風に応援された気がする。
「ありがとう。それじゃあ、また後でな」
俺は光る玉に背を向けて歩き出した。
なんだかんだと光る玉は、色々と情報を教えてくれた。
少し情報を整理しよう。
まず、このレースは非常に長い障害物競争であるという事。次に非常に強い四匹のライバルがいる事。その中の一人に俺は『絶対勝てない』のだそうだ。それだけでなく、多くの障害物が俺を待ち構えている。
だが、例え強力な敵がいたとしても、完全な生物など存在しない。必ず全てに勝利して見せる。
理想はそう決めたのだが、現実も見てみよう。俺自身の体には限界がある。何をどうしても俺の身体は軽い。
もし自分の限界を超えることができないならどうするか、……他の力を利用するほかない。
ここには色々な生き物がいる。彼らの力につけこめるのではないだろうか。
空を飛ぶでもいい、早く走るでもいい。自分にない能力を持つものの力を持つことができれば、俺はゴールに近づけるだろう。
だが、最後には一つの席を争うという前提はあるし、そうなると最後の最後でそいつ出し抜かなくてはならない。
それでも、一時的にでも生き物同士が手を組むことにはメリットがある。それを理解できるくらい賢い奴と同盟を組むべきだ。
もちろん、俺も何かしらのメリットを相手に提示しなくてはならないが、多少の勝算はある。
俺は体は小さいが視界は広い。糸を使えば罠も張れるし、隠れるものの気配も掴める。賢いものならば、情報力という重要性は理解できるはず。
何より、あまりにも俺の身体は小さい。俺のような弱い生き物に出し抜かれると思う奴は少ない。いつでも殺せると思えばこそ、ぎりぎりまで連れていかれる可能性もある。
もっとも、それはいつ殺されるか分からない綱渡りでもあるのだが。それでも、前に進むためにはこれがましな選択肢だろう。
今、この場にいる役に立ちそうでめぼしい生き物たちを眺めてみる。
狼にモグラ、コウモリあたりだろうか。
まず最初に目についたのは狼。長く大地を駆ける力は、あらゆる生き物で最も高いと聞く。
そして、こいつが優勝候補の一匹だろうと俺はあたりをつける。狼の足元にはライオンの躯が転がっている。百獣の王ですらはねのける強さをもつ狼か。
次に目についたのはモグラだ。
自分の爪を研いでいる。地を進むことにかけてはエキスパートであるし、何より安全な道が進めるだろう。
だから地を行くモグラも悪くない選択肢だ。
コウモリは空を征く。しかも闇にも強いとなると障害物競争において非常に有利に立てる可能性がある。
そいつらを眺めていると、最初に見かけた狼と目があった。
背にぴしりと痺れるような感覚が走った。
俺は狼と、じっとお互い見つめあった。
こいつと組むと、もしかするとこのレース、勝てるかもしれない。
さらに見ると、目に知性がある。きっと交渉ができる。
利益を上手く提示しよう、きっとこいつとなら、ぎりぎりまでお互いを利用しあえるだろう。
そう考えながら狼に近づいていくと、視界の端に小さく丸まっている生き物が見えた。
そこには、ぽろぽろと涙を流している亀がいた。体は俺よりは大きいが、ただ嘆いて空を見つめている。
ああ、光る球がさっき言っていたな。レースの勝利を諦めている数パーセントの生き物がいると。
こんなものは無視して、狼になんと言って話しかけようか。
俺自身は確かに狼と手を組めれば有利だが、向こうへの利益の提示を何と言おうか。
狼は静かに佇んでいるが、顔をこちらに向けている。
その狼に向けて歩き出そうとした時、ふと視界に入ったのは両目を手で覆う亀の姿だった。
「あああぁ、あああ」
ぽろり、ぽろりと大粒の涙が流れている。
うるさいな。自分の事は自分で何とかしろ。
こんな亀など無視して、あの狼のところに行かねば。
「あああああああぁぁ」
多分、この泣いている亀はすぐに死ぬ。この世界は、自分すら助けられない奴からくたばる。
当たり前でありきたりの、ごくごく普通の事だ。
「ああぁぁああ」
「……おい」
つい、俺は亀に声をかけてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます