第29話 天国と蜘蛛の糸

 なめらかな肌色に、長くつややかな黒い髪。

 整った相貌と言えるだろうし、牙もなければ、爪も指先程度のわずかなものしかしかない。

 女王の最後の姿は大きさこそ小さいものの、その出で立ちはニンゲンそのものだった。

 人と違うところがあるとするならば、背に透明で輝く羽根が生えていることくらいだ。

 そうか。……そこまで、そこまで強い願いで、人間になりたかったのか。

 願いのために前に進み続ける姿勢には、美しさすら感じる。

 俺は言葉を失ってしまって、じっと女王を見つめていると、女王から問いかけられた。


「どうした、クモよ。我自身の姿は眺めることができぬが、この姿におかしいところはあるか?」

「なかなかどうして、大したものだと思ってな。見事な姿だ」


 カメ子達が優勝台に向かう時間を稼ぐ必要もあるし、何より女王と話をする最後の機会だ。少しだけ話をしてみよう。


「その姿が最後の姿だってことは、お前も相当ニンゲンに思い入れがあるんだな」

「……そうだ。お前と同程度にはあるだろうと自負しておる」


 まあ、俺だってニンゲンに思いはあるさ。


「そもそも俺達が憧れたニンゲンって、何なんだろうな」


 俺はニンゲンの、言わばいい面ばかりを考えていた。

 だが、山羊の面をかぶっていた人間のような奴もいる。


「我らと何も変わりはすまい。ただの命の一つに過ぎぬ。ならばこそ善もあれば、悪もあろう」

「だが、俺はニンゲンに比べてあまりに小さい」

「命の重さは体積で決まるのか? そうではあるまい」


 女王は眉を逆立てた。

 俺の言葉に女王は、腹を立てているようだ。

 なるほど。ニンゲンの表情は感情をよく伝えてくるものだな。


「我は弱き者を相手にしているつもりもない。その下らぬ謙虚は、目の前の我に対しての侮辱であるぞ」


 確かに。目の前の女王は輝くほどの強い命だ。

 それなのに敵である俺が弱くあっていいはずもないし、そうありたくもない。


「俺が自分を弱いと言ってしまえば、ここに辿り着けなかった奴らに失礼だな。……じゃあ、改めて挨拶だ」


 息を大きく吸い込んで、俺は女王に前脚を掲げて威嚇する。

 全ての命は、それぞれにとっての主人公だ。

 俺にとっての物語がある様に、女王にとっての物語がある。

 それでも自らの願いを優先し、女王に立ちふさがると決めたのならば、全力を以て、なおかつ堂々とあらねばならない。


「この身は小なりと言えど、幾千の屍を乗り越えここまで来た。百戦に錬磨されしこの魂、砕けるものなら砕いてみるがいい! 女王!」


 俺がそう叫ぶと、女王は満足げに息を漏らす。


「そうだ……それでよい。我らは互いに命を張り合うに足る。……やっとここまで辿り着いた」


 女王は俺に何を見ているのだろうか、あるいは俺を通して別のものを見ているのだろうか。

 

「クモよ。これまで色々あったものだな」

「そうだな」


 俺は女王に同意しながら、これまでの旅を思い出す。

 大地の監獄から始まり、風塵の迷宮を乗り越えて、大河の決戦を搔い潜り、業火の道の先まで至った。

 幾度も幾度も女王とは出会ってきて、戦うこともあれば、隣を歩くこともあった。

 不思議なことに、ずっと昔から知り合っている気さえする。


「我ら身が小さき生き物には、長く苦しい旅路であった」

「まったくだ」

「語っても詮ないことではあるが、あえて言おう……我はこの一瞬を、焦げ付くほどに待ちわびた」


 女王は俺に拘っていた。一体いつからなのだろう。

 だが、その言葉は嘘ではないだろう。

 涙がすっと、女王の頬をさした。

 女王は、今どんな気持ちでいるのだろう。推察することも難しい。

 あれだけの一族が、今は世界でただ一匹となってしまっている。


「これは其の方への手向けの涙よ。……さあ、我らの最後の戦を始めよう」


 女王は涙の雫を指ですくって、振り払う。

 そして、こちらに拳を向けて宣言する。


「我は女王。願いの強さならば、誰にも負けぬ。我らの願いを必ずこの手にしてみせよう。そして、そなたの最後の運命しゅくてきである」


 女王の表情はとても晴れ晴れとしていて、凛々しくもあった。


「いざ、決着をつけよう」


 女王はそう言って、俺を見る。

 一瞬、互いに見つめあうことになって、僅かな時間余計なことを考えた。

 これが最後の戦いになるだろう。

 俺は正直なことを言うと、女王に憎しみはない。

 もしも出会い方が違っていたら、別の結末になっていたかもしれない。

 それこそ考えても意味のないことだな。

 今は、目の前の最後の敵に集中しよう。

 俺が最後の目で女王を見つめると、女王は闘志に満ちた強い眼差しを俺に向けてくる。

 こいつが強い敵であることなど、俺が一番よく知っている。

 この戦いの勝機は、クモの糸より細い。

 だがそもそも、これまでいくつもの万が一を乗り越えてきたことか。

 そう考えると、気も楽になる。それに走馬灯だって、これまで何度見たことか。

 ただ俺の体も、もはや限界が目に見えている。

 残る手足は二本、目は一つ。

 動きは鈍いし、体の一部は潰れている。今生きているのだって不思議なくらいだ。

 これで最後だ。

 だから持ってくれ、俺の体。

 もう命も、魂も、未来もいらない。

 俺の願いに、最後の力を与えてくれ。

 女王を見ると、軽くつま先立ちになり前傾姿勢をとってきた。

 駆け出してくる、そう思い待ち構える。

 限界に近い程集中していたのだが、ふ、と女王の姿がかき消えた。

 俺は驚くよりも先に、この身を右に躱す。

 目の前に唐突に現れた拳に体の一部を削るが、なんとか避けることができた。

 もはや、目に映らぬほど速い。

 ニンゲンについている足の力ではない、翼による加速力だ。

 透明の羽は、溶岩の色が映り込むように赤く輝いている。

 赤く煌めく翼を持つ者。人間が言うところの、まるで天使の様だな。


「我にこの姿まで到らせたのだ。失望させてくれるなよ」


 女王は俺に期待しすぎなのだ。

 だが、宿敵というならば、それには応えねばなるまい。

 見えないほど速い敵と戦うためには、と俺は瞬時に考える。

 そして俺は短い糸を幾本か中空に吐いた。


「今更、そんなものが当たるとでもっ」


 女王が声を荒げて近づく。

 勿論、この程度のものは何にもならないことは知っている。

 しかし、慎重な女王は糸を避けて俺に近づいてくる。

 その移動してくる軌道を予見すれば、目に映らな攻撃すら躱すことができる。

 一瞬先の未来を読むように、俺は体を動かす。

 それに俺の脚だってほとんどが取れており、その分、体が軽くなっている。 

 女王の巻き起こす風圧を利用すれば、紙一重で攻撃を避けることはできる。

 風に流されるように避ける。

 さらに、ふわり、ふわりと舞うように移動する。

 女王の拳が直撃すれば即死だが、こうしていると女王と踊っているような感覚さえする。


「これはこれで大したものだがな。クモよ、避けてばかりでは我は倒せぬ」


 そう、これでは倒すことはできない。

 しかし、女王はここで止めなくてはならない。

 カメ子達は優勝台に向かったとはいえ、全員いつ命が尽きてもおかしくない。

 そして、カメ子ではこの女王には勝てないだろうし、狼や虎だと言っても傷を広げられればどうなるか分からない。

 勝つためには、俺に攻撃力が足らない。

 ……足らないなら、増やせばいい。

 俺は女王の攻撃をかわしながら、少しずつ人間が落としたナイフに近づいていく。

 毒入りのナイフだったので、この毒が使えるならば状況を一変できるだろう。


「ふん。させると思うたか」

 

 俺の動きに気が付いたのか、女王はナイフに近づき手にする。

 女王は遠心力をつけて、ナイフを熔岩に投げ落とした。

 当然、気づくよな。

 それならそれでもいい。

 だとしたら残された俺の戦術は一つ。……勝てないなら、勝たない。

 俺の勝利条件は、カメ子の優勝だ。

 それならここで、カメ子が優勝して転生するまで時間稼ぎをし続ければいい。

 女王は全てのスペックにおいて、俺を上回る。力でも、知力でも、精神力でも。

 だが、一つだけ弱点があるとしたらこだわりだ。

 俺を無視して、優勝台に向かうという選択肢を女王は選ばなかった。

 くるり、くるりと女王も時に動きを変えて互いの思考を読むように。

 その内、女王は俺の吐く糸を気にせず殴りかかり、蹴りつける。

 そして、女王も俺の動きと自分の速さに慣れてきたのか、その拳が徐々に俺の体をかするようになっていく。

 俺は集中しすぎているせいか、痛みは全く感じない。

 そうして命がけのダンスを続けていると、ごごご、と背後から音がした。

 優勝台がゆっくりと上空に移動し始めた。

 それを見て、女王は俺から一旦距離をとる。

 俺と優勝台を一瞬見比べ、腰を落として膝を曲げる。

 空を飛び、優勝台に上ってカメ子の優勝を阻止するつもりなのだろう。

 だが、女王は空を飛ぶ可能性があることは、女王配下の羽アリどもがいたころから推測はあった。

 狼も虎の空を飛べないから、女王に対抗できるのは多分、俺だけだ。

 俺が残ったのは、女王との約束というのもあるが、それだけじゃない。

 糸を結べば、俺だって空を飛ぶことができるのだ。

 このまま女王の思うようにはさせはしない。

 女王は優勝台を一瞬見ると、上空に飛びあがった。


「俺がむざむざ行かせるとでも、思ったか!」


 俺は女王が交差した際に巻き付けていた糸を引っ張り、俺ごと宙に飛び上がった。

 とてつもない速さで、宙に浮かんでいく優勝台の更に上空に飛び上がっていく。

 凄まじい風圧に吹き飛ばされそうになりつつも、俺は必死で糸にしがみついた。

 ぐんぐんと優勝台に近づき、それを追い抜く。

 俺は唐突に悪寒がした。

 このままでは負けてしまう。なぜかそんな直感が走った。

 優勝台にいるみんなの顔が一瞬、目に映る。

 俺は覚悟を決めて、残っている自分の前脚に噛り付いた。

 体を斜めに隠して、俺は女王に声を掛ける。


「女王! 俺がここまで付いてくるとは思わなかったろ」


 女王はゆっくりとこちらを振り向いた。

 

「むろん。其の方ならば、必ずそうすることは分かっていた」


 女王はくるりと振り向くと、静かな目で俺を見下ろした。


「捕まえたのは我の方だ。……其の方も、空ならば動けまい?」


 女王の言う通り、ここでは俺は打つ手がない。

 空で大鷲と戦っていた時とは違う。何より女王に微塵も油断がない。


「言ったはずだ。この手で決着をつける、とな」


 女王は糸を手繰り俺を引き寄せてくる。

 糸を吐き続けて逃げ続けることもできるかもしれないが、それでも女王が糸を巻き取る速度の方が早い。 


「名残惜しいが、終わりの時間だ……む?」


 俺と距離を間近に詰めた女王が、一瞬手を止める。 


「其の方、残っていた腕はどうした?」


 俺は残り二つの前脚の片方をちぎり、糸をつけたまま宙に投げ捨てていた。

 死期が近いせいか、感覚が研ぎ澄まさせている。だからだろうか、もはや全ての風は読める。

 だから俺の捨てた前脚は風に流れて、……そろそろ目的地に着く頃だ。


「知ってるか? クモの糸は、よく燃えるんだ」


 道を照らす照明となっている燐、その火に俺の前脚がくべられた。

 その火は俺の糸を伝って俺達に近づいてくる。

 空中だからこそ、女王は避けようがない。 

 女王の羽は強力だが、だからこそたやすく他の行動ができない。

 この状態までなって、たとえ俺をその手で殺したとしても、女王の羽に火は回る。


詰みだチェックメイト


 俺の死と勝利はこの瞬間に確定した。

 女王の羽に火が付き、火によって瞬時に赤く染まる。


「……見事だ」


 だが、女王の顔にあったのは悔しさでも怒りでもない。

 ただ透き通るような笑みを浮かべていた。

 そして俺の体も赤く染まる。

 不思議と痛みはなく、意識が遠のいていった。




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 気がつけば俺は、優勝台の端に引っかかっていた。

 体についたはずの火が消えている。

 翼を失った女王は、優勝台の上に落ちたようだ。


「お前、……俺の体についた火を消したのか? 何故そんなことをした」

「……勝者には、勝利を味わう義務があろう。……すぐに、命が尽きるとしてもだ」


 命が尽きる、か。

 女王の言葉の通り、俺の体はもうほとんどの感覚がない。

 俺の体は火にあぶられる前から、とっくに限界を超えている。


「敗者には勝者の背中を見届ける権利がある。……行くがいい」

「……ああ」


 女王はそれだけ言って、俺を送り出そうとする。

 そうだな。ここで女王に声をかけるのは違うのだろう。振り向くべきではない。堂々とするべきなのだ。

 俺は残り一本しかない足を使い、這いずるがそれでも前を向いて進む。

 体はバラバラになりそうだ。

 そうして最初に辿り着いたところは、虎のところだった。


「見事である。……吾輩は蜘蛛は嫌いではあるが、お主はよき生き物であるな」


 虎はそう断言した。


「そうでもない。これでも色んな奴を泣かせたりしてしまっているからな」


 俺の言葉に虎は快活に笑う。


「ははは。確かに、精進というのは詰み続けなければならぬのである。だが、お主が懸命であったことは吾輩も知っておくのである。吾輩は進む道を失ったものである。だが、最後の最後で同志にあえたこと吾輩は嬉しく思うぞ」


 虎は豪快に笑った。こいつらしい言い方だ。

 気高くあろうとするものに、同志と言われるのは誇らしくもある。


「さあ、紳士は女性を待たせるわけにもいくまい」

「……ああ」


 最後にでも、こういう奴とも関係性を作れるものだな。

 そうしてどんどん痛みが消えていくような体を引きずり、途中で体がほとんど動かなくなった。

 目もかすんでほとんど前が見えない。

 すると、狼が自分から近づいてきた。


「なあ、こんなところでどうしたんだぜ」


 狼は、出会った時と同じようなことを軽く笑いながら言った。


「ちょっと体が動かなくてな」

「しょうがないな。私が連れて行ってやるんだぜ」


 俺は狼の前足に糸を繋げた。


「お前には、いつも助けられるな。雪山の後で、色々話をしようと言ってたな」

「……そうそう、私の方からも一つ聞きたいことがあったんだぜ。正直に答えて欲しいんだぜ」

「何だ?」


 ここまで来たのだ、そしてここまで助けてくれたこの狼の前では、例えどんなことでも嘘はつくまい。


「このスタートの所で、最初に私に声を掛けようとしただろ。あれは何でなんだぜ?」


 俺が最初に組むべき相手を考えた時、何故だか狼が目に入った。

 思い返してみる。強そうだとか、速そうだとか色々あるような気もするが、どれもしっくりこない。

 だから俺は思ったまま言葉にすることにした。


「分からない。ただお前を見たら、何となくそうしようと思ったんだ。なんだかこう、ぴしっと来たというか」


 随分と曖昧な表現になってしまうが、それがあの時の俺の正直な気持ちだった。


「ははは! いい答えだ。私はそれで十分、満足したってもんなんだぜ」


 狼は声を上げて、屈託のない笑みを浮かべる。


「なあクモ、願いは叶ったかよ」

「ああ、……お前のおかげでな」

「私も目的を達成したことだし、思い残すことはないんだぜ」


 軽口を叩くようないつもの調子の狼だが、どちらが先に倒れてもおかしくないほどの深手だ。


「お前は最後まで、目的を教えてくれないんだな」


 飼い主と名乗ったあの人間に逆らう理由。

 狼の気持ち、分からないことだらけだ。


「おいおい。今更それを聞くのは、野暮ってもんだぜ」

「そうか、……そうだな」


 狼は自分の事を語らなかった。語りたくなかったのかもしれないし、それでもいいと俺は思う。

 俺にとって狼は、どこまでも頼もしい味方であった。最後まで狼はそうであったし、それで十分だ。

 きっと狼は、自分自身が思うように生きたかったのではないだろうか。

 そして俺が意識が朦朧とするなか見えたのは、狼の満面の笑みだった。


「ま、ここは私の負けってことにしておくんだぜ。さ、着いたんだぜ」


 そして優勝台の中央に行くと、狼は足を止めた。

 そこには光る玉がいた。

 ヘビ子が元の姿になったのだろう。


「やあやあ。よくここまで辿り着いたね、小さなクモ」

「どうだ。思っていたのとは違うかもしれないが、最後まではたどり着いたぞ」


 足は一本、目も一つ。だが、失ったもの以上に得たものは多い。

 このレースは俺にとって消耗するだけのものではなかったと今では思う。


「ところで、君の気持ちは変わったかな?」


 かつてヘビ子は俺に勝つように勧めていた。


「変わらない。優勝はカメ子だ」


 でも、俺はそう答える。

 心の中でいくつもの声が聞こえる。

 もっと生きたい。死にたくない。ニンゲンとして生きてみて、幸せに暮らしていきたい。

 そんな気持ちは昔と変わらずある。

 しかし、それとは別の気持ちも生まれた。

 カメ子を見ていると、なんだか放っておけないと、助けてやりたいと。


「そう。……それでこそ君なのかも。今回、転生するのはカメ子だけども、この戦いに勝利したのは君だよ。君こそが誰よりもニンゲンだったよ」


 こいつもずっと、俺を見届けてくれた。

 ここまで俺がこれたのも、こいつに情けない姿を見せたくなかったからなのかもしれない。


「お前がこの先、どう生きるのかは分からない。でも、元気でな。お前も色々あるんだろうけど、俺はお前にも幸せになってて欲しい。だから、お前に覚えていて欲しいことは一つある。俺自身の事じゃない。お前の事を心配する生き物が一匹はいたってことだけは覚えておいてくれ」

 

 ヘビ子は、言葉を一瞬詰まらせる。


「ボクは君を、君の魂をずっと覚えておくよ。……さ、カメ子も……」


 ヘビ子の下にいるカメ子と目が合う。

 その目には零れそうな涙をこらえていた。

 仕方がない。俺はそれでいいと思って、カメ子を先に行かせたがカメ子にとっては騙し討ちみたいなものだ。


「よう、カメ子。すまんな」 

「どうして謝るの。それはこっちの方だよ。ごめん。ごめんなさい。くーちゃん。こんなにボロボロに」


 俺は自分の姿はもう見えないが、きっともうどうにもならない姿なのだろうな。


「お前は、泣き虫に戻るなよ。……いや、まあたまには、泣くこともあってもいいか。でもな、覚えておけ。お前は強い亀だ」

「でも……」

「だいたいだな、生きていれば、死ぬことだってその内ある。それに長いレースだって、いつかは終わる。仮に、一緒に人間になれたとしたって、いつかはどちらかが先に死ぬだろ」

「そうだけど」


 人間の命は長い奴で80年と聞く。

 それよりずっと早い奴だっているし、結局は命は終わるのは変わりがない。


「なあ、カメ子。どうせ死んで別れるなら、最初から出会わない方がよかったか?」

「そんなことないよっ。そうだとしても、くーちゃんと会えてよかったもん」


 その言葉をカメ子は否定する。


「そうだ。……俺もお前といられて良かったよ。……だから、そう泣くなよ」


 この前脚、……いいや俺の最後の手は、こいつの涙を止めるために使おう。

 カメ子の涙に手を添える。

 重い。随分と重い涙だ。

 しばらくそうしていると、カメ子は涙を止めることができた。

 良かったと気がぬけいたら、俺は最後に残った手が砕け散った。

 それを見たカメ子は、再び泣きそうになったが上を向いて堪えた。

 最後になんと言ってやろうかと考えるが普通の事しか思いつかない。


「楽しかった。ありがとう、カメ子」

「うん。わたしも楽しかった。ありがとう、大好きだよ、くーちゃん」


 カメ子は必死に笑った。

 今は悲しいかもしれない。耐える日もあるのかもしれない。

 だが、そのうち本当に笑えるようになるさ。

 いいや、そうなっていて欲しい。

 俺の体が風に流されふわりと宙に浮く。


「…………」

 

 誰かの叫びが聞こえる。

 もう音も遠く、目も見えなくなる。

 優勝台の上から俺の体が零れ落ちていく。

 ただ、もはや見えない目でも、光を感じることはできる。

 ゆっくりと上昇する優勝の台は、暗い星に光る花火のように美しい。

 ふと、脳裏に俺と同じ姿の兄弟が目に浮かぶ。

 お前とも約束した通りだ。俺は誰にも負けなかった。

 だから、悪くない気分だ。

 とても静かで、穏やかな気持ちになっている。

 だからだろうか、とにかく眠い。

 俺は意識が徐々に遠くなっていく。

 ヘビ子、カメ子、狼、女王、兄弟、虎。

 長い旅路のようでも、振り返れば一瞬だ。

 そして女王の言う通り、小さい虫にはつらい旅路だった。

 けれど皆がいたから、辛いだけの旅でもなかった。

 色んな奴がいた。だから俺の方こそ伝えたい。

 ありがとう、と。


 俺と関わってくれた者たちに、無限の感謝を。

 白い光に包まれながら、俺は満ち足りた気持ちになっていった。

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