第19話 水の飛沫と三つ巴

 カメ子の口の中で揺られていたが、口が開いたのか暗闇からゆっくりと光が差し込んだ。

 川を渡り切ったのだ。俺は、すぐさまカメ子の甲羅の上によじ登る。


「くーちゃんっ」

「ああ、よく無事で……とは言えない状況だな」 


 地面が激しく揺れている、ゾウが大地を踏みしめているのと、水の剣が地から立ち上っているからだろう。

 そして見上げると、そこには巨大な大蜘蛛がいる。今はこちらを観察しているようで動きはない。

 全長はおよそ2メートル。それほどの巨体であるが天井に張り付いている。

 おそらくは、壁を貫けるほどの強い脚を持っているのだろう。ぎらりと光る銀の牙は、大型の生き物の骨であってもかみ砕けそうだ。

 目を合わせていると、ぐらりと体が倒れこみそうになる。

 やはりクモの本能として、オスはメスに勝てないという事が刻まれているのだろう。

 俺は土蜘蛛を睨みつけて、これまで走ってきた道の事を思い出す。カメ子やヘビ子、狼や女王アリ、それに兄弟や紳士の虎。

 するとさっきまでの焦燥の気持ちが薄らぎ、心が静かになっていく。

 逆に考えるなら、土蜘蛛はクモの精神に何か影響できる能力を持っているのかもしれない。

 そんなことを考えていると、くすくすと、嘲笑する音が土蜘蛛から聞こえてきた。

 俺はいつ動くともしれない土蜘蛛を視界に収めつつ、周囲を確認する。

 川を越えたところの大広場はおよそ60メートル四方だ。天井までは7メートルほどはあるだろうか。

 また、大広場は白い糸と所々にある繭で埋め尽くされている。繭の中身は様々な形があることから、土蜘蛛の餌になってしまった生き物もいるだろう。

 それに考えたくないことだが、このいくつかは卵だったりすると、そこから多くのクモが発生するのではないだろうか。

 ただでさえ極めて困難なのに、それ以上の厄介事が追加されていく。

 それに加えてこの広場にいるのは、俺たちと土蜘蛛、ゾウだけではなかった。

 白い服のようなものを纏った7匹のサルがいる。手には大きな杭のような杖を持っている。服のように見えるものをよく観察すると、クモの糸でできている。

 サルたちにどんな理由があるのかは知らないが、おそらくは土蜘蛛の一味なのだろう。

 そのサルたちは、きーきー、と耳障りな叫びをあげてゾウに群がっている。


「このちこそけっせんじょう、このちこそけっせんじょう」


 その話し方は、以前どこかで出会ったドーシと呼ばれるゴリラに近いものがあった。

 サルは、クモの糸の後ろに隠れるようにして飛び回っている。

 壁の一面には糸が張り巡らされていて出口がどこかが分からない。

 ゾウの様子を見ると鼻を振るって糸を引きちぎっている。だが、あまりにも糸の数は多い。

 広場の一面が真っ白で、ここでも地が揺れて所々から間欠泉が湧き出している。

 どこを向いても死の気配がする。

 ゾウには踏まれれば終わり、土蜘蛛には糸で絡めとられれば終わり、サルたちの持っている杭を刺されればカメ子の甲羅も割れるだろう。

 あるいは水の中に戻って様子を伺いたいところでもあるが、川の流れが速いためその場に留まることはできない。どこかに流されレース会場には戻れないだろう。

 どこだ、どこが安全だ。

 そう考えていると、ゾウも土蜘蛛やサルたちに苛立ったのか、大きく咆哮して威嚇した。


「……カメ子、ゾウの背後から足元に向かってくれ」

「うん」


 カメ子がそろりと音を立てずにゾウに近づく。

 ゾウに踏まれたら終わりではあるが、土蜘蛛にはこちらの事が気づかれている。

 危険の優先順位としては、ゾウの足元の方がまだましだろう。

 ゾウの様子を見ていると巨大な鼻で、大きく水を吸い込んだ。そして何をするかと思えば土蜘蛛に向けて勢いをつけて吹きかける。

 だが、距離があるために土蜘蛛は難なく躱す。

 くすくす、とゾウを笑う声が屋上より響く。

 ゾウは地面が揺れる程、怒りを込めて踏みつけた。


「正々堂々と勝負しろ」


 低くうなるような声に、土蜘蛛は笑いながら答える。


「なあに、正々堂々なんて、愚か者と卑怯者の言葉じゃなくて。『俺の方が強いんだから、いいから黙って踏みつぶされろ』なんて言われて、黙って従う生き物いるとでも思うのかしらぁ、お馬鹿さんねぇ」


 土蜘蛛の甲高い笑い声とともに嘲笑が響く。

 その声に苛立ちを覚えるが、確かに土蜘蛛の言う通り、ゾウに正面から立ち向かえる生き物はいないだろう。

 だから、逆を言えばゾウは土蜘蛛など無視して先に進めばいいものを、対決することを選んでいるようだ。

 おそらくは土蜘蛛の思うつぼだろうに、ゾウは自らの感情を優先するようだった。

 ゾウは周囲にある蜘蛛の糸を、鼻で引きちぎろうとしているが少し時間がかかっている。


「こんな程度!」


 ゾウが糸にかかわっている間に、土蜘蛛は違う場所に降り立ち糸をさまざまな場所に巻き付け増やしていく。それに気づいたゾウは土蜘蛛に突進しようとするが、土蜘蛛は糸を伝って天井に舞い戻った。


「小癪な」


 ゾウはじろりと土蜘蛛を睨みつけるも、事態の変化はなかった。

 カメ子もゾウの後ろ足の付近までくると、小声で俺に指示を仰ぐ。一歩でも読み間違えると俺たちは即死だ。

 ゾウの動きを先読みしつつ、カメ子に歩く先を伝えながら、俺は周囲を確認する。

 やはり出口がどこにあるのかが覆われていて分からない。

 ゾウは鼻息を荒くして苛立ちを隠せなかったが、攻めあぐねている。

 すると、そんな様子を見てかサルたちが騒ぎ始めた。


「さあ、ぞうよ。われらをふみつぶすがいい」


 体を低くして、杭を地に突き立てたサルが血走った目でそんな事を叫んだ。

 その異常といえる姿にカメ子は息をのんだ。

 奴らの目的はなんだ? 自ら踏みつぶされようとしているのは何のためだ。

 理解は不明だが、ゾウは敵の数が減るとでも思ったのか、大きく前脚を持ち上げて振り下ろした。

 サルの一匹は血をまき散らしながらその場でぐしゃり、と潰れた。

 それに伴って杭も地面に突き刺さる。


「……くーちゃん、これは何だろう」

「分からんが、敵が減ることは俺たちの不利にはならないはずだ」


 カメ子とひそひそと話をする。

 だが、その行為は一匹だけではなかった。

 他のサルも杭を手に叫んだ。


「ぞうよ。こちらにもくるがいい。われらをふみつぶせ」

「何を考えている」


 ゾウのつぶやきを無視するように、きゃきゃきゃ、とサルは何も言わずに笑う。


「くたばれ」


 ゾウはごきり、ぺきりとサルたちを踏み殺していった。そうして必然的にどんどんと杭が地に打たれる。

 杭の方向を逆にして、尖った部分でならゾウにも攻撃が通るだろうに、サルは一体何を考えているのか。

 ゾウはサルの最期の一匹をふみつぶす直前で足を止めて声をかける。


「目的を言え、楽に殺してやる」

「ああ、らくえんはちかい。おまえたちはじごくでくるしむがいい。どーし、どーしよ。ささげます」

 

 血走った目のサルはそう叫ぶと、ゾウは前足に力を込めた。

 カメ子は血しぶきから身を隠すように体を縮めた。


「下らぬ」


 ゾウはもはやサルには一瞥もくれず、土蜘蛛を睨みつけた。


「おまえの手下は全て死んだ」


 そしてゾウは地面を踏み鳴らして威嚇するが、土蜘蛛はこたえた様子もない。


「いやねえ、そんなのあたしには関係ないわよ」


 土蜘蛛の声は、ガラスに爪を立てたような不快な声だった。


「それより、あなたの足元に亀がいるわよ」


 ゾウは体を曲げて、こちらを見た。

 そして後ろ足を大きく持ち上げる。


「くーちゃん!」

「大丈夫だ、動くな」


 ぴたりと、カメ子は動きを止めている。

 空中から土蜘蛛がゾウに向けて襲い掛かってきた。

 ゾウは、その場で足をおろして鼻を振り上げて土蜘蛛を払いのけた。


「あら、あなた鈍いのね。毒も効かないみたい」


 クモの麻痺毒も通さないほど、ゾウの皮膚は厚いようだった。

 ともあれ、こんな膠着状態こそが俺達の命を繋いでいる。

 土蜘蛛はゾウに近づくために隙を作りたいだろう、ゾウも俺たちに構っている暇はないだろう。

 しかし、困ったことにゾウは怒りのあまりだろうか、先に進む事より土蜘蛛と対決することに頭がいっているようだ。

 ゾウが土蜘蛛に勝ったら勝ったで、邪魔な俺たちをふみつぶしに来るだろう。

 勝ち筋は今のところ見えない。


「くーちゃん」


 カメ子が小声で聞いてきた。


「……しばらくは膠着が続く。耐えてくれ」


 こくりと、小さい首でカメ子は頷いた。

 一歩でもゾウに踏まれたら終わり、けれどもゾウの近くから離れれば土蜘蛛に殺されてしまうだろう。

 だから、やはりこの場所こそが安全地帯。

 俺はゾウの動きと土蜘蛛の動きを計算しながら、カメ子に進む道を伝える。

 すると、カメ子はゾウの歩みに合わせてカメ子も駆け込んでいく。

 何度か繰り返すうちに、ゾウは埒が明かないと思ったのか周囲を見渡した。

 そして、俺たちと目が合った。

 後ろ足を持ち上げてふみつぶそうとしてくるが、足の死角に入って何とか躱す。

 ゾウは踏みつぶしができないと見るや、自らの大きな鼻を水たまりにつけて大きく吸い込んだ。


「カメ子、甲羅に身を隠せ」


 ゾウは水を吹きだした。俺たちはその水の勢いに負けて、ゾウの足元からはじき出された。

 カメ子は甲羅を逆さまに、ひっくり返ってしまった。

 そして前からはゾウ、後ろからは土蜘蛛が迫ってくる。

 カメ子は焦って体を力ませじたばたと手足を動かすが、立ち上がれる様子はない。

 

「カメ子。空中で回転した時のことは覚えているな。勢いをつけて一気に回ればこの状態から元に戻れる。……ゆっくりとだ、体を前後にゆするんだ」

「えいやっ」


 カメ子はきれいに反転し、再び地に足をつけられた。


「よし」


 だが、これからどうする。

 もはやゾウと、土蜘蛛は数歩の距離のはず。

 だが、足音がしない。俺は急いでカメ子の甲羅から這い出た。

 目に水がかかって視界が一瞬ぼんやりとしてしまった。

 白いクモの糸の中に、大きい灰色のゾウがいる。

 そして黒い靄のようなものが見えた。


「さあ約束の時だ」


 すこし目が慣れてきて、聞き覚えのある声に振り向く。

 そこにいたのは、絶望の黒色の生き物。女王アリだった。

 おびただしい程の羽根つきのアリが、別のアリを空から運んでいる。

 水を越えられないはずのアリは、空を飛ぶことによってレースの障害を乗り越えた。

 女王アリは進化したのだ。このレースに打ち勝つために。

 だが、女王アリがここに来たということは、狼が倒されたということだろうか。

 俺はぎりっと牙をかみ合わせて、怒りを抑えようとした。


「女王ちゃん、……狼ちゃんは」

「ここに我がいることが、その答えだ」


 淡々と女王アリは告げ、カメ子は目から涙を零しながらも口元を引き締めて上を向いた。

 俺も色々な感情を体の中に隠して、今この場を生き延びるための計算を始める。

 この女王アリが他の生き物と戦っている隙に、と思いながら女王の様子をうかがうと、女王は俺をまっすぐに見据えていた。


「決着をつけようか、クモよ」


 そして女王アリは、ゾウや土蜘蛛に目もくれず高らかに俺に宣言した。

 俺にとっての死刑宣告を。

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